更新日:2019年04月26日 10:46
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GW10連休ヒマな人にオススメしたい関ヶ原ドライブの旅

袋のネズミは自分だった!? 毛利秀元になりきってわかったこと

 ポジションは、南宮山の南東斜面の頂上近く。石田三成は、その様子を「有事には人数の上り下りもできない程の山」と嘆いたというが、確かにこれからいくさをしようというより、籠城に近いのを実感する。  毛利軍は1万ほど。それに対して東軍は、9月14日に到着した家康本隊を加えると、7万前後になっていた。大垣城内に籠る西軍もせいぜい2万余り。いくさ慣れしていない奉行集(三成含む)のまずい作戦指揮により、西軍は圧倒的に不利な状況になっていた! 毛利秀元は、当時満21歳と若いながらに朝鮮の役でも活躍した武将で、関ヶ原合戦後は大坂城で徹底抗戦を主張したというが、眼下の平野が徐々に東軍の大軍勢で埋まるのを見れば、山を下りる気も削がれたことだろう。

南宮山頂上からの景色

 この場所からは、大垣城の西軍や、それを包囲した東軍はよく見えただろうが、関ヶ原盆地は山の反対側にあり、まったく見えない。開戦後、三成は毛利軍に参戦を促すため、何度も烽火を上げたというが、少なくともこの場所からは、関ヶ原で何があってもまったくわからない。あくまでここは、大垣城に対応した後詰めの陣なのを肌で感じる。

関ヶ原の合戦の通説布陣図

西軍敗戦の真のキーマン吉川広家の陣跡も!

 実は毛利軍は、先鋒の重臣・吉川広家が「内府(家康)に敵うはずなし」と考え、決選前日に独断で事実上の降伏をしていた。それを知らない毛利秀元や安国寺恵瓊は、合戦当日、しきりと吉川広家に参戦を促したという。しかし先鋒の広家が動かないため動くに動けず。秀元は督戦の使者に、「いま弁当を食っているから」と言い逃れ続けたという。それが通説のエピソード「宰相(さいしょう)殿の空(から)弁当」である。

南宮山のふもとにある吉川広家の陣跡

 ただ、いかに吉川広家が降伏していたとはいえ、約束など簡単に反故になるのが戦国の世。家康はこの敵陣を捨て置いて奥に進むだろうか?  家康本隊は南宮山手前で停止して、合戦中も毛利軍を牽制し続けたと主張する説が新説の中にあるが、実際に南宮山に登ってみると、その説に一理ありという気がしてくる。つまり、西軍本隊を追って関ヶ原方面へ向かったのは、福島正則や黒田長政ら、豊臣恩顧の猛将たちのみだった(ような気がする。次回へ続く)。 取材・文/清水草一 写真/池之平昌信
1962年東京生まれ。慶大法卒。編集者を経てフリーライター。『そのフェラーリください!!』をはじめとするお笑いフェラーリ文学のほか、『首都高速の謎』『高速道路の謎』などの著作で道路交通ジャーナリストとしても活動中
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