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『どうする家康』で話題の今川家、現代社会なら「ベンチャーによって倒産に追い込まれた名門企業」

人材の適正に応じた組織の改編を行った

竹千代と今川義元

竹千代(のちの徳川家康)と今川義元

 1535(天文5)年、今川氏の第10代当主である今川氏輝が23歳の若さで病死。あとを継いだのが、弟にあたる義元である。  義元は、それまでの領国だった駿河と遠江だけではなく、三河まで進出を果たす。3カ国を支配して、「海道一の弓取り」とも称された。  義元は家督継承にあたって、庶兄である花蔵殿との「花蔵の乱」に勝利。その勝利の裏には、義元を3歳のときから教育する軍師、雪斎の存在があった。義元が当主になってからも、雪斎はそばで支え続けた。1548(天文17)年の三河の小豆坂合戦では、織田信秀の軍を撃破するという活躍を見せている。  ちなみに、この勝利によって、三河松平氏を隷属させ、今川家は竹千代を人質として預かることになる。この竹千代がのちの徳川家康である。義元は、花蔵の乱に勝利したあと「家中」、つまり、家臣団を削減して再編させ、雪斎とのラインを強化。人材の適正に応じた組織の改編もまた新リーダーが担う大きな役割だが、義元はそれをきちんと果たしていた。  また、内政については、父の氏親が制定した「今川仮名目録」を改訂して「仮名目録追加」を定めた。さらに、検地によって領内・家臣の実態把握に乗り出している。

巨大勢力と手を組み発展させた今川義元

 さらに、義元は対外的にも大きな仕事をした。それは、武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意のもとに結ばれた「甲相駿三国同盟」の締結だ。  だが、それはただラッキーで転がってきたわけではない。義元は当主になって早々に、実に大胆な行動に出ている。自分が家督を継承するのに協力をしてくれた北条家と距離を置き、武田家に急接近したのである。  当然、北条家との関係性は悪くなるが、地理的条件を考えると、守りを固めるために、背に腹は変えられない。そうして武田家との関係性を強化することで、結果的には、武田家とも北条家とも同盟を結ぶことができた。  現代のビジネスでいえば、従来からある大きな取引先をいったん見直すことで、新たな取引先との可能性を模索することができ、最終的には、従来の取引先との関係性も以前とは違うかたちで構築したといえよう。
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衰退期に領民と向きあった今川氏真
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伝記作家、偉人研究家、名言収集家。1979年兵庫県生まれ。同志社大学卒。業界誌編集長を経て、2020年に独立して執筆業に専念。『偉人名言迷言事典』『逃げまくった文豪たち』『10分で世界が広がる 15人の偉人のおはなし』『賢者に学ぶ、「心が折れない」生き方』など著作多数。『ざんねんな偉人伝』『ざんねんな歴史人物』は累計20万部を突破し、ベストセラーとなっている。名古屋外国語大学現代国際学特殊講義、宮崎大学公開講座などで講師活動も行う。最新刊は『「神回答」大全 人生のピンチを乗り切る著名人の最強アンサー100』。

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