ザ・ロード・ウォリアーズ 暴走戦士はベスト・フレンズ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第53話>
トレードマークになった顔のペインティグもどちらかといえば偶然の産物だった。“ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング”のTVテーピングを視察に来ていたルイジアナのプロモーター、ビル・ワットがアニマルとホークに「目の下を黒く塗ったほうがいい」とアドバイスした。
理由は、ホークの顔つきが「やさしすぎる」からだった。アトランタでウォリアースに変身したとき、ホークは26歳で、アニマルは23歳だった。
世間知らずのふたりがプロモーターにダマされないようにと、ミネソタ出身の先輩レスラー、ポール・エラリングPaul Elleringがビジネス・マネジャーについた。
NWAジョージア、AWA、全日本プロレス、NWAクロケット・プロ、WWEとウォリアーズはどこへいってもヒット商品になった。
ウォリアーズのトレードマークは“3分間プロレス”だった。花道を走ってきて、いきなり闘いはじめて、あっというまに勝ってリングを去っていくというのが1980年代の定番パターン。
1990年代になると、こんどはじっくりと試合を組み立てるようになった。年代ごとに髪型、コスチューム、タイツもマイナーチェンジをくり返した。
日本のファンにとって思い出ぶかいのは、1992年(平成4年)12月、新日本プロレスのリングで誕生したホーク・ウォリアー&パワー・ウォリアー(佐々木健)のヘルレイザースだろう。
テーマ曲はオジー・オズボーンの“ヘルレイザー”。このチームは約3年間活動し、IWGPタッグ王座を保持。相棒アニマルは尾てい骨骨折で長期欠場中だった。
ウォリアーズの版権・著作権を奪おうとしたビンス・マクマホンとはあまり仲よくできなかった。WWEのリングでは、ふたりはLOD(リージョン・オブ・ドゥーム)という新しいチーム名を名乗った。
ホークとアニマルは、性格的には正反対だった。ホークはナイトクラビングが好きで、ツアーに出るといつも朝まで遊びほうけていた。アルコール類はなんでもたくさん飲んだし、思いつく限りのありとあらゆる化学物質を体にぶち込んだ。
アニマルはドラッグはいっさいやらなかったし、お酒も控えめで、早寝早起きだった。兄弟みたいに仲がよかった時代もあるし、あまり会話を交わさない時代もあった。
あっというまとはいわないけれど、ホークとアニマルに変身したマイクとジョーは、20年という歳月をいっしょに過ごした。
ウォリアーズはこの世にふたりしかいない。ナンバーワンでありつづけるよりも、オンリーワンであることのほうが大切なんだと考えるようになった。
ふたりはいつのまにかベスト・フレンドになっていた。アニマルが「あしたも早いから外出するのはやめようぜ」といえば、ホークは「じゃあ、オレは一杯だけ飲んでくる」と答えた。
たったそれだけの会話でふたりはおたがいのことをちゃんと理解することができた。
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