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オフィス北野を退所するマキタスポーツ、「芸人人生21年史」を語る

 マキタの芸人デビューは浅草キッドが主宰していた「浅草お兄さん会」。本人は98年のことと思い込んでいたが「どうやら97年の11月ぐらいにネタ見せに行って合格して、12月に初舞台を踏んでいるみたいなんですよ」とのこと。そのときは漫才をやりたかったが、相方がいないので漫談でフリップを使ったり、一人コントをやったりしたという。  だが、マキタは芸人デビュー時にすでに28歳。それまではハンバーガー屋の店長を務めるなど、フリーター生活を続けていた。当時としてはデビューが遅いが、そもそもなぜ芸人になろうと思ったのだろうか? それを尋ねたところ、次のような答えが返ってきた。 「明確に『こっち』から『あっち』に渡ったという感覚がありましたね。俗世間から境界をまたいで演芸、エンタメの世界に行ったという感覚はあって、『もう後戻りしねえぞ』と言う覚悟をしていた。ずっと山梨の田舎生まれで『芸能人になりたい』とずっと思ってたけどそれを言えなかった。『芸能人になりたい』なんて言ったら『はあ?』って話だから。親戚や友達とかに負い目というか、言い切れない気持ちもあったけど、デビューした頃にそこを渡ってきたという感じがありました」  そして、そこには映画の影響もあったという。『クロスロード』。1986年公開のラルフ・マッチオ主演のアメリカ映画だ。 「悪魔に魂を売ったという伝説を舞台にした映画なんです。ロバート・ジョンソンの伝説のブルースマンの曲がテーマになっていて、そこでクロスロードというものを渡って悪魔と契約したという内容なんだけど、それには影響を受けていた。だから、自分も芸人になったことで『俺はもう悪魔と契約したんだ』って感じだったわけ。そういうヒロイックな気分でしたね」  一般人の世界にいれば、「市井のひょうきんな人」として「面白い」と評価されるが、芸人の世界に入れば「面白い」という評価は当たり前。「だからこそ、もっとすごいことをやらなければ、と感じていたんですよね。でも、今となってはその感覚も間違っていたと思う」とマキタが語るように、デビュー当時こそは調子が良かったものの、数年後には長期に渡る「売れそうで売れない時代」にもがき苦しむことになる。(明日に続く) 取材・文/織田曜一郎(週刊SPA!)
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