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テレワークはラブホですべし。仕事が異様にはかどる/古谷経衡

ラブホでテレワークに励む筆者

独りラブホ考現学/第17回  新型コロナ渦によってまたぞろテレワークというのが推奨されている。なんでもテレワークとは「遠く」で「働く」という意味らしい。それならば「遠隔地労働」という風に分かりやすく名付ければよろしい。何でも横文字にして実相を誤魔化そうとするのは東京都知事だけで結構である。  筆者は、今次の新型コロナ渦についてその将来を全く心配をしていない。人類の歴史とはすなわち感染症との闘いの歴史であった。その数多の感染症とパンデミックを乗り越えて私たちは今ここに立っているのである。歴史に聞けば、このような新型ウイルスの猛威は、私たち祖先が数千年の間、営々と繰り返してきた歴史的葛藤のトレースにすぎない。その「新しいタイプ」がたまたま、私たちが生きている時代にやってきた、という事である。  せいぜい、季節性インフルエンザの5倍~程度の致死率に何を狼狽するか。国土が回復不能に陥る原発事故の方がよほど恐怖である。それなのに日本社会は驚天動地の自粛ムード。学校も全部休むという。自然の脅威にはただ耐え忍ぶよりほかにない。何を右往左往するのか。ワクチンの開発まで泰然自若として待てないのか。どうも現代人はせっかちに過ぎる。滑稽なほどせっかちに過ぎる。  このせいで筆者も講演会がひとつ中止という塩梅になった。決定自体はまず妥当だと思うが、私の期待収入を返せと筆者は叫びたいのである。

自宅でテレワークは失敗する

 ということで、テレワークを本格的に導入するのであれば、自宅にいては必ず失敗する。なぜなら現代人に於ける自宅とは、「しがらみ」の宝庫だからである。途中まで読みかけの漫画。まだ見ていないが保存だけはしてあるネット動画。先週号の雑誌。そして、一旦気になりだしたら止まることを知らない部屋掃除。それに、アルコールをキンキンに冷やしてくれる近代的冷蔵庫の存在である。  これまで、定時に電車に乗って定時に電車で帰ってくる生活をしていた労働者が、いきなりテレワークと言われて成功するわけがない。むろん、その失敗の原因は上にあげた「しがらみ」との誘惑に打ち勝つことが出来ず、怠惰への一直線に堕ちるからである。テレワーク導入の成否とは、本質的に言えば技術的分野ではない。テレワークの最大の障害とは自分自身である。  筆者は物書きとして10年。今次のようにテレワーク・テレワークと叫ばれるはるか前からテレワークを実践してきた。筆者の仕事は、編集者からの電話原稿依頼(受注)と、メールでの原稿送信(納品)、および電話での打ち合わせで原則完全に事足りる。この形態は著述業、文筆業に特有のものではない。ぱっと思いつくところでは(助手を必要としない)漫画家やイラストレーター、トレーダーその他少なくない業態に普遍的に存在する仕事形態である。  そこで問題になってくるのはやはり、高次機能的に設計された自宅という快適な空間にある「しがらみ」と如何に離別するのかというその一点であり、であるから古来、文豪などはその「しがらみ」が根源的に存在しない伊豆や熱海の旅館に缶詰めにされて本を書いたのである。  だが、筆者の物書きとしての「格」では到底、出版社は伊豆や熱海の旅館を取ってくれない。出版社はどこも経済的に厳しく、そんな不採算な原稿生成活動を全然許容しない。いまや中堅や準大御所に対してでも、出版社がホテルや旅館を取って缶詰めにさせる、など聞いたことがない。それほど不況の度は深刻なのである。であるならば、私達テレワーカーにできることは、自腹を切って能動的にホテルや旅館に行って自らを快適な空間=自宅からシャットアウトするしかないのである。
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サービスタイムが適度な緊張を生む
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(ふるやつねひら)1982年生まれ。作家/評論家/令和政治社会問題研究所所長。日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。20代後半からネトウヨ陣営の気鋭の論客として執筆活動を展開したが、やがて保守論壇のムラ体質や年功序列に愛想を尽かし、現在は距離を置いている。『愛国商売』(小学館)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり ヘイトスピーチはなぜ無くならないのか』(晶文社)など、著書多数

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