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志村けんの先見性。34年前の番組企画はYouTubeの先駆けだった

 志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎のため、3月29日にお亡くなりになられた。俺は1972年生まれで、初めて知った「お笑い芸人」がドリフターズであり、その中心人物が志村さんだった。  約半世紀にわたり、「お笑い」を続け、亡くなる5日前まで「スタジオコント」が放送されていた志村さんの突然の訃報にショックすら感じられないくらい実感がなかった。4月1日にフジテレビ系列で放送された「志村けんさん追悼特別番組 46年間笑いをありがとう」もオープニングから「追悼番組のコント」を見ているかのようだった。

最強の「ギャガー」だった志村けん

 俺は「コント」が好きだったので、TBS系列で放送されていた「8時だョ!全員集合」(以下、全員集合)よりもフジテレビ系列で放送されていた「ドリフ大爆笑」のほうが好きだった。たくさんのお客さん、しかも子供が入っているからこその少し緩めのテンポ感だった「全員集合」よりも、スタジオコントの「ドリフ大爆笑」のテンポ感のほうがリアルであり、自分好みだったのだ。 「全員集合」では、放送時間1時間の約半分を費やしていた前半コントの図式が基本的に「いかりや対仲本・高木・加藤・志村」であり変わることがないことに対して、「ドリフ大爆笑」の笑いは多種多様であり、それも魅力だった。  当初、「全員集合」はいかりや長介さんの番組だった。大きく時間を割いた前半コントもいかりやさんのものだった。暴れまわる4人をツッコミ倒し、最後に逆襲に合う。いかりやさんはコントを毎週何十時間も打ち合わせをして練り上げたという。  そこには裏番組で座長を張るライバル、萩本欽一さんの存在があったと思う。いかりやさんと萩本さんのライバルストーリーが続く中、志村さんは後半のコーナーで「東村山音頭」「ヒゲダンス」などを大ヒットさせていった。 「志村けん=コント」というイメージは強いが、志村さんは今風にいうと最強の「ギャガー」であり、「ギャグヒットメーカー」なのである。いかりやさんが何十時間かけて練り上げた「コント」も、丁々発止で繰り広げた萩本欽一さんの「アドリブコント」も、志村さんのキャッチーなギャグに次第に飲み込まれていった。  ギャグのヒットにより志村さんの立ち位置はどんどん変わっていき、いかりやさんのものだった前半コントも、志村さんの「ボケ待ち」のような状況になる。志村けんという天才は「ドリフターズ」をも飲み込んだ。それはすべて「ギャグ」の力だった。

志村けんを生かした屈指のパートナー

 スタジオコントを繰り広げた「ドリフ大爆笑」。特に俺が好きだったのが「志村(ツッコミ)・加藤(ボケ)」「いかりや(ツッコミ)・志村(ボケ)」のコンビだ。 「志村(ツッコミ)・加藤(ボケ)」はわかりやすくて、テンポよくボケツッコミが絡み合う。関西人の俺にも「関西風」に思えるそのやり取りは、何も考えることなく瞬発的に笑えた。  一方、「いかりや(ツッコミ)・志村(ボケ)」は、番組最後の「もしものコーナー」くらいでしかコンビを組むことはなかったのだが、志村さんが風変わりなキャラクターに扮することが多く、その志村さんをいかりやさんが「静観」してからツッコむことが多かったように感じていた。  いかりやさんは最大限まで志村さんを泳がせて遊ばせる。「志村・加藤」は「2人が面白い」、「いかりや・志村」は「志村が面白い」というふうに俺の目には写った。志村さんは「ツッコミ役」にしろ「ボケ役」にしろ「自分がリードする側」でいるほうが生きるのだろう。だからこそ、その後、フジテレビ系列で放送される志村さん単独でのレギュラーコント番組「志村けんのだいじょうぶだぁ」では、お笑い芸人をレギュラーとして置くことはなかったのかと思う。  ついに「志村けんのだいじょうぶだぁ」という「城」を手に入れた志村さんは、ここで最強のパートナーを育て上げる。それが田代まさしさんだ。俺の独断だが、志村さんが今まで組んできたパートナーで田代さんこそが最強だったと思う。  ツッコミは強く、空気感も時代にマッチしていた。ノリツッコミもできる。ボケもできるので、「ツッコミ志村けん」も存分に見せることができたのだ。  大物ゲストが来たときにはサブ役としてしっかりサポートする。田代さんこそ志村さんの最強の右腕だった。しかし、田代さんの度重なる事件によって志村さんの横に戻ることができず、志村さんの死をもってこの最強コンビが永遠に復活することがなくなった。追悼番組においても「志村・田代」コンビのコントは放送されることはなかった。これこそがイチお笑いファンとして悔やまれるところである。
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34年前にあった「YouTubeの走り」
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