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東京都北区赤羽の優良ラブホ。戦時下の逞しい市民に思いを馳せる/文筆家・古谷経衡

「ホテル THE Mooon」

東京都北区赤羽「ホテル THE Mooon」

第25回 戦争の記憶と赤羽

 私が赤羽で深酒した後、必ず求める室はラブホテル「ホテル THE Mooon」である。この物件は赤羽随一の飲み屋街である「一番街」のすぐ裏側にあり、近隣には24時間泊めて1500~1600円という格安の駐車場が豊富にある。物件は赤羽随一と言えるほど洗練されており、はっきり言って決して安い宿ではなく平日宿泊でも概ね1万円以上する「準高級」の部類に入るが、「一番街」から最も至便な立地から定宿としているのである。私の場合、大体は夕方ごろから「一番街」の安居酒屋を2~4軒ほど回る。行きつけという程の店は無いが、どの店も安い。「一番街」で飲んで直行できるラブホとしては「ホテル THE Mooon」が第一選択である。  私が赤羽という街に興味を持つようになったきっかけは、清野とおる氏の大ヒット漫画『東京都北区赤羽』の読了によるものであった。これを機にちょくちょくと赤羽で深酒する様になった私は、赤羽という街の味わい深さにも、また想いを馳せることに相成ったわけである。

「城北空襲」の戦火で市民は…

 赤羽は東京都北区に位置するが、戦前、北区は王子区と滝野川区の2区に分かれ、1947年にこれが合併して北区になった。十条には広大な第一陸軍造兵廠(王子区)がおかれ、主に弾薬製造がおこなわれたことから、この一帯は「軍都」と呼ばれるまでの性質を帯びるようになったのである(現在でも、陸上自衛隊十条駐屯地があるのはその名残である)。  1941年12月の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したのち、しだいに日本の敗色が濃厚となると、米軍がこの巨大な陸軍造兵廠を放っておくわけがなかった。  米軍は1944年のサイパン陥落以降、本格的に日本本土空襲を企図し、はじめは多摩方面にある中島飛行機の製造工場等を狙って精密爆撃したが、日本上空特有の天候の急変や日本側迎撃機などの妨害で十分な戦果が上がらず、1945年3月10日の所謂「東京大空襲」を皮切りに、市街地への無差別爆撃に切り替えた。  現北区の一帯は、前掲「東京大空襲(下町空襲)」の後に行われた、1945年4月の所謂「城北空襲」で主要目標地点とされ、現北区一帯はその2/3が灰燼に帰したとされる。3月10日の東京大空襲の死者は約10万人であり、下町が壊滅したのは言うまでもない。しかし実は4月の「城北空襲」で投下された焼夷弾等の爆弾量は3月10日より大規模なものだったのだが、死者は約30分の1以下の約2000~3000人に留まっている。
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「一番街」に残る復興の足音
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(ふるやつねひら)1982年生まれ。作家/評論家/令和政治社会問題研究所所長。日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。20代後半からネトウヨ陣営の気鋭の論客として執筆活動を展開したが、やがて保守論壇のムラ体質や年功序列に愛想を尽かし、現在は距離を置いている。『愛国商売』(小学館)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり ヘイトスピーチはなぜ無くならないのか』(晶文社)など、著書多数

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