更新日:2022年12月17日 22:43
スポーツ

ザ・ロード・ウォリアーズ 暴走戦士はベスト・フレンズ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第53話>

ザ・ロード・ウォリアーズ 暴走戦士はベスト・フレンズ<第53話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第53話は「ザ・ロード・ウォリアーズ 暴走戦士はベスト・フレンズ」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 モヒカン刈りがアニマルで、逆モヒカン刈りがホーク。ザ・ロード・ウォリアーズは、だれがなんといおうとアメリカのプロレス史上、もっとも成功したタッグチームである。  実力と人気、キャラクターのオリジナル性とマーケティング性、世代を超えた影響力とどれをとっても比類なきスーパースター。  そこに立っているだけで観客のハートを揺さぶるギリシャ彫刻のような芸術的な肉体を持った男たちだった。  ロード・ウォリアーズはある日、偶然のような感じで誕生した。  デビュー当時のプロフィルは「シカゴのスラム街育ちで、少年時代はネズミを食って暮らしていた」というものだったが、もちろんこれは完ぺきなファンタジーで、ホーク=マイク・ヘグストランドもアニマル=ジョー・ローリナイディスもミネソタのわりとふつうの家庭で育った。  師匠のエディ・シャーキーは、レスリング・スクールの同期生だったホークとリック・ルードRick Rudeにタッグチームを組ませるつもりだったが、ジョージアのプロモーター、オレイ・アンダーソンはホークとアニマルのコンビのほうがおもしろそうだと考えた。オレイは「じゃあ、キミとキミね」といってふたりを指さした。  ミネソタ州ミネアポリスには“プロレスラーの卵”がたくさんいた。  シャーキーはじつは名コーチというわけではなかったけれど、街なかのトレーニング・ジムやバーで体の大きい若者を発見すると、すぐに「プロレスをやってみないか」と声をかけた。  ボブ・バックランドもジェシー・ベンチュラ元ミネソタ州知事もシャーキーのあやしいコーチを受けてプロレスラーになった。  約6カ月間のトレーニング・セッションを終えたホークは、シャーキーのブッキングでカナダ・バンクーバーのインディー団体に送り込まれた。  リングネームはクラッシャー・フォン・ヘイグ。時代遅れの“ナチスの亡霊”キャラクターだった。  新人レスラーの生活の苦しさを学んだホークは荷物をまとめてミネアポリスに帰ってきた。  アニマルもジョー・ローレンのリングネームでノースカロライナにブッキングされたが、日払いのファイトマネーでは生活ができずにすぐにミネアポリスに戻ってきた。  アニマルは、ホークとめぐり逢わなかったら大学に入り直してフットボールをやるつもりだった。  もしも、このときオレイが体が大きくて、運動神経がよくて、まだメジャー団体のリングを経験していない(ギャラの安い)ルーキーを探していなかったら、ロード・ウォリアーズはこの世に存在していなかった。  ホークというリングネームは、ホークとシャーキーの合作だった。のちの必殺技ダブル・インパクトのモチーフとなるトップロープからのダイビング・クローズラインは、獲物を狙って大空から舞い降りてくる鷹(ホーク)をイメージさせた。  ホークとアニマルは、オレイにジョージア州アトランタのテレビ・スタジオに連れていかれ、いきなり試合をやらされた(1983年6月)。  ウォリアーズのビジュアルはちょっとずつ進化していった。はじめは革キャップ、革ベスト、革パンツをすべて黒で統一したハーレー系バイカーのキャラクターだった。  そのあとは映画『マッドマックス』の近未来SFバイオレンスのイメージしたスパイク・プロテクターをリング・コスチュームに使った。最後に髪をモヒカン刈りにした。
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トレードマークになった顔のペインティグも偶然の産物
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