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風見しんご、認知症の父の介護を10年間「長女の交通事故死から救ってくれたのは父の涙」

―[50代になる憂鬱]―
 人生の大きな試練のひとつが「親の介護」だ。10年間の介護の末に父を看取った風見しんごさんは、「父親が65歳で若年性認知症と診断されたときは、目の前が真っ暗になった」と語る。
50代になる憂鬱

風見しんごさん

10年間の介護を経て新たに見つけた父との思い出と絆

「母が脳卒中で倒れて介護が必要になり、その母を看取って3年ほどしかたっていませんでした。もう介護は終わったと思っていたので、『まさか』と途方に暮れました」 「最近、物忘れがひどい」という父親の呟きを聞き流していた風見さん。だが、地元・広島の知人から「戻ってこい」と言われ、久しぶりに再会した父親の目を見たときに不安に襲われたという。 「息子だからわかる部分もありますが、もう自分の知る父ではなくなっていました。『これから、自分たちの生活はどうなってしまうのか?』とパニックになりました」  当時、風見さんは41歳の働き盛りで、次女が生まれたばかり。 「ただ、幸運だったのは、幼なじみの医師が相談に乗ってくれたこと。当時(’03年)は介護保険制度が導入されたばかりで、どんな選択肢があるかもわからなかった。田舎だから、『親の世話は子供がすべき』というプレッシャーもあった。そんな状況でも、ケアマネジャーを紹介してもらい、仕事と介護を両立させる道を模索しました」  当初、グループホームに入居という形を選んだが、認知症の症状が進行すると、受け入れが困難に。 「東京の自宅で介護するという選択もありましたが、家に閉じ込めることになってしまうのと、介護が負担になって家族が笑顔でいられなくなることは何としても防ぎたかった。その思いで、千葉の特別養護老人ホームにお世話になりました。  父は誰よりも孫を愛していましたから、娘に父を嫌いになってほしくなかった。最後まで“大好きなおじいちゃん”のままで終わらせてあげたかったんです」  毎週末、家族で千葉まで面会に行く日々。その中で、風見さんはあることに気がついたという。 「職員の方々に父の性格や人柄を伝えるのは、子供の責任。そう考えて、父の昔の日記を読んだり、友人に昔話を聞いて歩きました。すると、『おやじって、こんな人生を生きてきたんだ』と、自分の中に父の記憶が増えていくんです。それは、介護がなかったら生まれなかった僕と父の絆です」  だが、その父親が愛した孫娘、風見さんの長女・えみるちゃんが’07年に交通事故で他界してしまう。 「その生き地獄の中から救ってくれたのも、父の介護でした。薄れゆく意識の中で、えみるのことを『かわいそうなことをした』と涙を流した父。その父には自分しかいないから、とにかく会いに行く。そうした繰り返しが、次第に世間との関わりを取り戻させてくれたのだと思います」  10年間の介護を振り返り、風見さんはこう語りかける。 「介護は決して楽なことではありませんが、明るい部分も絶対にある。一番よくないのは、肩に力を入れすぎてしまうこと。満点じゃなくていい、できる範囲で寄り添えれば、それで十分だと思います」  “いい介護をしなくちゃ”と力むほど、介護はつらく、悲しいものになってしまうのだ。
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選択肢はひとつではない。家族の笑顔が一番の介護
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