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革命を目指した同志12人をリンチ殺害…連合赤軍・植垣康博が当時を振り返る【大量殺人事件の系譜】

赤軍派から「爆弾を作ってほしい」と依頼された

植垣康博

植垣康博氏が当時を振り返る

「高校の地学部の活動で、ニトロ化合物の爆薬を作った経験があり、それを知った赤軍派から『爆弾を作ってほしい』と依頼されたのです。当時、赤軍派の詳しい理論は知らなかったが、革命のためには武装闘争も必要な時期に来ている、そう思って引き受けました。それが、赤軍派と関わるきっかけでした」  イデオロギー論を戦わせている場合ではなく、武力蜂起こそやるべきことだ。そうした路線が主流になる組織の中で、植垣氏は1971年2月、活動資金を調達するためM作戦と呼ばれた連続銀行強盗や、明治公園爆弾闘争を実行していった。  その年の暮れ、連合赤軍は群馬県内の山中にアジトを設営する。植垣氏がアジトに入ると、既に「総括」という名のリンチが始まっていた。「こんなことでいいのか?」と植垣氏が疑問を呈すると、幹部は「革命のためには仕方ない」と言い放ち、もはや従わざるを得ない状況に陥っていた。総括とは、自己の思想や言動の政治的な反省要求で、徹底した自己批判を求められた。それはいわば、同志の粛清である。  厳寒の山中、厳しい総括要求は非常に辛いものだった。アジトから逃走を企てたり、ブルジョア的だ、などという理由でメンバーは総括を求められる。反革命と見なされたメンバーたちは植垣氏らから激しく殴られ、真冬の戸外に縛り上げられ、やがて絶命していった。その惨殺の方法はほかに、アイスピックで刺し、ナイフで心臓をえぐる、などと報道されている。リンチで殺害されたのは12人にもおよんだ。
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27年間を獄中で過ごした植垣氏が今思うこと
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兵士たちの連合赤軍

植垣康博の自伝的記録

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