根源的な問題は「主権国家体制」の欠陥である
戦争でダメージを受けたキーウのショッピングセンター
―― 加藤さんは『戦争倫理学』(ちくま新書)で戦争と倫理の問題を論じています。哲学者、倫理学者の立場からウクライナ戦争をどう見ていますか。
加藤尚武氏(以下、加藤) ロシアによるウクライナ侵攻は既存の国際法秩序を破壊する暴挙であり、ロシアは罰されるべきです。しかし、国際社会には主権国家より上位の第三者が存在しないため、ロシアを罰することは現実的に困難です。
つまり、ウクライナ戦争は人類に対して
「国際社会では大国が悪を犯しても罰することができない」という事実を突きつけているのです。これは「主権国家体制」そのものの欠陥です。我々は主権国家というシステムを根本から見直すべき時に来ているのです。
加藤尚武氏の著書『戦争倫理学』 (ちくま新書)
―― ウクライナ戦争はロシアの問題ではなく、主権国家そのものの問題だということですか。
加藤 そういうことです。最大の問題は、主権国家の行動が制限できず、「正義の戦争」に歯止めがかけられないことです。
主権国家の正義とは自国の主権や独立、国益を守ることであり、他の主権国家はそれを脅かす存在です。それゆえ、主権国家はお互いの正義を守るため、それぞれ「正義の戦争」を掲げて争い合うことになります。
しかも、国際社会には主権国家より上位の第三者は存在せず、主権国家は誰にも縛られず、誰にも従うことがない。国際社会は基本的に無秩序であり、主権国家同士の戦争を止めることも、他国を侵略したり民間人を虐殺したりした国家を罰することもできない。
こうして主権国家は「一国の正義」を守るため、「正義の戦争」を繰り返した。その結果として行き着いたのが、二度の世界大戦です。
しかし、このまま主権国家同士の戦争が無秩序に続けば、平和は永遠に実現できず、人類そのものが滅びかねない。それを避けるためには、何とかして「正義の戦争」に歯止めをかけなければなりません。
そのためには
「一国の正義」を超えて、国家と国家の間に「共通の正義」を生み出すしかない。一国の主権や独立、国益を超えて、全国家が従うべき「共通の秩序」を作り出すしかない――世界で初めてこのことに気づいたのが、哲学者のカントとベンサムです。
だから、我々の課題はいかに「一国の正義」に基づく主権国家の行動を制限し、国家間の「共通の正義」「共通の秩序」を実現するかということです。そのために哲学者や法学者は必死の努力を続けてきました。その成果が、長い歴史の中で積み重ねられてきた既存の国際法秩序です。
ただ、主権国家より上位の第三者が存在しない以上、国際法が成立したとはいえ、主権国家がそれに違反しても罰することは難しいままです。
国家と国家の間に「法」は成立したが、「法の支配」が確立したわけではない。この点は注意する必要があります。
―― たとえば、国連憲章は重要な国際法ですが、あまり機能していないのが実態です。
加藤 国連憲章は「武力による威嚇又は武力の行使」の禁止を定め、世界で初めて法的に戦争を禁止しました。これ自体はとても画期的なことだったと思います。
しかし、国連憲章は「武力の行使」の例外として個別的・集団的自衛権の発動を認めています。それゆえ、特定の国が軍事行動を起こした場合、それが「不当な武力行使」なのか「正当な自衛権の発動」なのかを判定することはできません。
また、特定の国が国連憲章に違反した場合、安全保障理事会が主導して制裁を加えるとしています。しかし、安保理はほとんど機能していません。
その要因は、
戦勝国の特権です。米英仏露中の5か国は安保理常任理事国として拒否権などの特権を持っています。しかし、お互いに対立して拒否権を多用するため、国連の安全保障システムはほとんど機能しなくなっています。
そもそも国連は「常任理事国は国連憲章に違反しない」という前提で組織されています。また、常任理事国の特権は「国際平和に対して他国よりも重い責任と義務を負う」という前提で許されたものであるはずです。
ところが、その一角であるロシアがウクライナに侵攻するという事態が起きてしまった。これによって我々は
「常任理事国が国連憲章に違反しても罰することができない」という国連そのものの欠陥を突きつけられたのです。
今、国際社会では国際法秩序が揺らいで、無秩序な時代に逆戻りしようとしています。そうであれば尚のこと、我々は国際法秩序を強化して、「一国の正義」を超える「共通の正義」の実現を目指さなければなりません。
―― これまで西側はロシアと一切妥協せず、徹底的に戦う方針を貫いています。
加藤 その方針は正しいと思います。ロシアによるウクライナ侵攻は国連憲章違反であり、ロシアの勝利は許されません。西側がロシアと妥協して領土侵略を認めれば、強国は弱小国を侵略してもよいという前例が生まれます。そうなれば、既存の国際法秩序は崩壊し、国際社会は無秩序に逆戻りしてしまいます。
また、ロシアによる人権侵害は尋常ではありません。「
ブチャの虐殺」に象徴されるように、ロシアの軍隊や警察は占領地域で拉致、拷問、強姦、虐殺などの人権侵害を組織的に行っていることが強く疑われます。チェチェン紛争の時と同じです。
この状況で停戦を行えば、ロシアによる非人道的な占領を受け入れることになります。ウクライナが停戦を拒否してロシアに徹底抗戦し、西側がそれを支援するのは当然です。
ただ、それでも核保有国であるロシアを軍事的に敗北させることは難しいでしょう。ウクライナの継戦能力や西側の支援がどこまで持つかも分かりません。どこかのタイミングで西側が自国の利益を優先して、ロシアとの妥協に転じる可能性は否定できないと思います。
―― しかし、ウクライナ戦争が続けば、やがて核戦争に発展する恐れがあります。
加藤 西側はその事態も覚悟しているのではないか。西側はプーチンが核を使った場合でも自陣営の結束が崩れないよう、プーチンが核兵器を使用した場合の対応策について事前に協議しているでしょう。表には出てきませんが、裏では間違いなく議論しているはずです。
ただ、西側とロシアが核を撃ち合えば、双方は共倒れになります。規模にもよりますが、「核戦争に勝者はいない」というのが原則です。
―― 加藤さんは『戦争倫理学』で米国のアフガン、イラク侵攻も批判しています。
加藤 米国は同時多発テロに対する報復としてアフガンとイラクに侵攻しましたが、これは明らかに国連憲章に違反する行為です。国際法秩序の崩壊はロシアがウクライナに侵攻してから始まったのではなく、米国がイラクに侵攻した20年前から始まっていたのです。
米国の人権侵害も尋常ではありません。ジョン・W・ダワーの『アメリカ 暴力の世紀』(岩波書店)によれば、「第二次世界大戦以降、アメリカの秘密工作活動の結果死亡した数は少なくとも600万人にのぼっている」といいます。ベトナム戦争やイラク戦争では多くの民間人が犠牲になり、その数はそれぞれ200万人以上、20~50万人以上にのぼるといわれています。
また、NATOは米国主導でユーゴ空爆やアフガン空爆、リビア空爆を行ってきましたが、そこでも多数の民間人が犠牲になっています。これらの軍事行動も国際法違反というべきです。
―― 西側は自由や民主主義、人権、法の支配を掲げる価値観外交を展開していますが、国際社会から広く支持されているとはいえません。
加藤 そもそも欧米は数百年間にわたって世界中を植民地化していました。あれだけ世界中の人々の人権を蹂躙してきた欧米が人権を理由に他国を批判しても説得力はありません。
それゆえ、グローバルサウスの国々はロシアに批判的でありながらも、西側とは一線を画しています。彼らはロシアも西側も「どっちもどっち」だと考えているのでしょう。だから、ウクライナ戦争でも中立的な立場を取り、等距離外交を行っている。
その気持ちはよく分かります。しかし、それは間違いです。
目の前で起きている国際法違反と人権侵害を許してはならないからです。人類は長い時間をかけて国際法秩序を形成し、世界がより安全な場所になるよう努力してきました。この歩みを止めてはなりません。