“Mrワンダフル”ポール・オーンドーフ――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第60回
日本のファンにとっては、ヨーロッパ遠征から帰国した前田日明の凱旋マッチの対戦相手をつとめたときのイメージがひじょうに強い(1983年4月21日=東京・蔵前国技館)。アメリカのトップスターをわずか3分あまりのファイトタイムで一蹴した前田はその実力を証明した形となったが、あまりにもあっけなく負けたオーンドーフは日本における商品価値を失ってしまった。
“レッスルマニア1”でホーガン&ミスターTに敗れたパイパーとオーンドーフはリング上で仲間割れを演じ、オーンドーフはベビーフェースの道を歩みはじめる。
1980年代後半のWWEは、所属メンバーを3つのグループに分けて1日3都市、年間980公演という殺人的なスケジュールを組んでいた。オーンドーフ対パイパー、オーンドーフ対ボブ・オートンの“因縁マッチ”は、ホーガンが出場するAクルーとは別コースのBクルーのメインイベントとして1年を通じて全米をツアーした。
NBC特番“サタデーナイト・メインイベント”のTVマッチではホーガンとオーンドーフがタッグを組むこともあった。大物ベビーフェースが新コンビを結成すると、それから数カ月後には必ず仲間割れがはじまる、というのがビンス・マクマホン・シニアの時代からつづくニューヨーク・スタイルのドラマづくりの基本である。
ポスト“レッスルマニア2”の新路線は、再びヒールに転向したオーンドーフとホーガンの“ねじれた友情ストーリー”だった。
オーンドーフの“ミスター・ワンダフル”というニックネームは、じつはベビーフェースとヒールを演じ分けることのできる万能プレーヤーを意味していた。(つづく)
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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