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“レッスルマニア2”は3都市同時開催――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第51回

「フミ斎藤のプロレス講座別冊」月~金更新 WWEヒストリー第51回


 ビンス・マクマホンは“レッスルマニア2”(1986年4月7日)の3都市同時開催を計画していた。ロケーションはニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス。3つのライブ中継をPPVでドッキングさせるというまったく新しい試みだった。

3都市での興行をPPVでリレー式ライブ中継する

ビンス・マクマホンは“レッスルマニア2”のアメリカ大陸横断3都市同時開催を計画。ロケーションはニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス。3都市での興行をPPVでリレー式ライブ中継するというまったく新しい試みだった。(写真はWWEオフィシャル・ビデオのジャケットより)

 WWEもビンス自身もそれを認めようとはしなかったが、大陸横断3都市同時興行というプランはNWAクロケット・プロの存在を意識したものだった。

 NWAクロケット・プロは前年、“スターケード”の第3回大会をジョージア州アトランタとノースカロライナ州グリーンズボロの2都市で同時開催し、ライブとクローズド・サーキット上映(全17会場)の合算で約93万6000ドルという興行収益をはじき出した(1985年11月28日)。“1ドル=200円”の時代の90万ドルは約1億8000円に換算される。

 “レッスルマニア1”(1985年3月31日)はマディソン・スクウェア・ガーデンでのライブとクローズド・サーキット上映(全米133ロケーション)の合算で430万ドル(約8億6000万円)の興行収益をあげたが、ビンスは“田舎のプロレス”の市場性を無視することはできないと感じていた。

 WWEは当時、契約選手を“Aグループ”から“Cグループ”までの3クルーに分けて1日3都市、年間のべ980公演の超過密スケジュールをルーティンにしていたから、“レッスルマニア2”の3都市同時開催プランはそれほど高いハードルではなかった。

 開催地はニューヨークがナッソー・コロシアム、シカゴがローズモント・ホライズン、ロサンゼルスは1984年のロサンゼルス・オリンピックのメイン・アリーナとしてオープンしたロサンゼルス・スポーツ・アリーナ。3都市でそれぞれ1万人クラスの観客を動員するためのカード編成のプランニングがはじまったのは1986年1月だった。

 ニューヨークのメインイベントは、ロディ・パイパー対ミスターTのボクシング・マッチ。これは前年の“レッスルマニア1”の続編といっていいカード。ビンスは、ミスターTの“トレーナー役”としてプロボクシング元世界ヘビー級王者で、モハメド・アリをノックアウトした男として一世を風びしたジョー・フレージャーをブッキングした。

 シカゴのメインは20選手出場のスーパーヘビー級バトルロイヤル。アンドレ・ザ・ジャイアント、ブルーノ・サンマルチノ、ペドロ・モラレスといったWWEのクラシック・メンバーとともにウイリアム“リフリッジュレーター”ペリー(シカゴ・ベアーズ)、ビル・フラーリック(アトランタ・ファルコンズ)らNFLプレーヤーたちの“プロレス体験”がプロデュースされた。“冷蔵庫”ペリーの“レッスルマニア2”出場というニュースにメディアが飛びついた。

 そして、ロサンゼルスのメインはハルク・ホーガン対キングコング・バンディのWWE世界ヘビー級選手権“ケージ・マッチ”。パイパー対ミスターTのボクシング・マッチ、プロ・フットボール選手たちが出場するバトルロイヤルよりも大きなドラマづくりが必要なのは、皮肉なことに主人公ホーガンの試合だった。

 “レッスルマニア2”開催の1カ月まえ、NBC特番“サタデーナイト・メインイベント”がプライムタイムで全米中継された(1986年2月15日収録、同3月1日オンエア=アリゾナ州フェニックス)。

 この大会のメインはホーガン対“マグニフィセント”ドン・ムラコのタイトルマッチだったが、この試合にバンディが乱入。“公称500ポンド”の全体重をかけたフライング・ソーセージでホーガンのろっ骨を“骨折”させた。

 番組は10パーセントの高視聴率をあげ、バンディは一夜にしてその名を全米に知られることとなった。ホーガンの勧善懲悪ドラマのストーリーは、シンプルであればあるほどよかった。(つづく)

斎藤文彦

斎藤文彦

※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

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