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ビンスの選択は“ヒットマン”Or“HBK”?――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第221回(1996年編)

 いずれのケースもネームバリューも実績もあるタッグチームをあえて解散させたのは、ほかならぬビンスだった。ビンスは製作総指揮監督の立場からブレットとナイドハートのコンビのうちブレットだけを選択し、ショーンとジャネッティのタッグチームからはショーンだけを抜てきした。ビンスのキャスティングからもれたナイドハートとジャネッティはその後、WWEの“主流派グループ”から姿を消した。  タッグチームあるいはタッグマッチは、シングル部門のメインイベンターあるいはメインイベントよりもワンランク劣るサムシング、というのがビンスの持論だ。  ビンスが少年時代にあこがれたレスラーが“ドクター”ジェリー・グラハムという1950年代の大ヒールであったことは有名なエピソードだが、ジェリー・グラハムはゴールデン・グラハムスというトリオのタッグチームの親分格で、次男エディ・グラハム、三男ルーク・グラハム(いずれもレスリング・ブラザーでじっさいには血縁関係はなかった)とのタッグチームで一世を風びした。  ビンスの記憶の映像には「ジェリー・グラハムがシングルプレーヤーだったとしたら“ネイチャーボーイ”バディ・ロジャースよりもビッグなスーパースターになっていたにちがいない」という“if”の命題がこびりついていたのだろう。  たしかにバディ・ロジャースは20世紀のプロレス史を代表する重要なキーパーソンのひとりだが、ジェリー・グラハムは歴史年表には登場しない。  タッグチームのなかでほんとうに才能があるレスラーはふたり(または3人)のうちのどちらかひとりだというのもビンスの持論で、ビンスはそれまでも“人気商品”だったいくつかのタッグチームをあえて解散させ、そのなかのひとりだけをシングルプレーヤーに転向させてきた。
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ビンスにはひとつの持論があった
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