更新日:2022年08月25日 10:06
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自称・天才の音楽家は全裸で泣いた――爪切男のタクシー×ハンター【第三十一話】

 思い返してみれば、私のこれまでの人生の至る所に音楽は深く関わっている。  母はまだ小さかった私と多額の借金を残して家を去った。父は借金返済の為に仕事に精を出し、私にかまってくれる暇は無かった為、祖父母が両親代わりになり私を育ててくれた。私は毎晩のように二人と一緒にテレビを観た。年配の祖父母は演歌や歌謡曲中心の歌番組を好んで観るので、その影響で、私は美空ひばりや江利チエミの曲を口ずさむようになった。江利チエミの「テネシー・ワルツ」を熱唱する小学生の私を見て、祖父母は手を叩いて喜んでいたし、親父も笑っていたのを覚えている。借金返済という辛い毎日を送る家族にとって、私の歌声は戦場に響く天使の歌声だったのかもしれない。声変わりで野太い声になったのをきっかけに私は歌うことは止めた。  高校生の時、親父から黒塗りのエレキベースをもらった。音楽をしている大学時代の友人からもらったが、自分には必要ないからお前にやるとのことだった。今にして思えば、非常に不自然な渡し方だったので、親父からのプレゼントだったのかもしれない。暇を持て余していた私は、不意に手に入れたベースに夢中になった。バンドをしているクラスメイトに頼み込んで教則本をもらい、一心不乱に練習した。ギターという楽器が奏でる音はぼんやりとイメージができたが、弦が四本しかなくて、低い音を奏でるベースという不思議な楽器に私はのめり込んでいった。  春が過ぎ、夏になった頃、少しはベースを弾けるようになった私は、思春期の男子が考える健全な思想として、女にモテる為にバンドを組もうとした。だが、バンドに誘える知り合いがいなかった。それならば、まずは見た目からロックに変えて、それを見た同じ嗜好の人からバンドに誘ってもらえるのを狙うことにした。大好きだったBUCK-TICKやソフトバレエなどのヴィジュアル系バンドを模倣して、顔はもちろん首までファンデーションを塗りたくって真っ白にした。眉毛をキリッと切れ長に整え、薄く口紅を塗ったメイクで学校に通った。中学時代にひどいニキビで悩まされた私は、歌舞伎の女形のように綺麗になった自分の姿にウットリした。  もちろん、そんな危険人物をバンドに誘うような人などいるはずがなかった。それどころか、数学教師のババアに「お前がその気持ち悪い化粧を落としてくるまで、私は授業をしない!」と槍玉に上げられる始末だった。簡単に折れるほど私のロックスピリッツはやわじゃないと、最初は断固拒否の姿勢を貫いていたが、クラスメイトの冷たい視線と非難の声に耐えかねた私は、おとなしくトイレで顔を洗ってメイクを落とした。私の素顔を見たババア教師は「それでええ! そっちのほうが男前やで!」と満足そうな笑みを浮かべ、黒板に二次関数のグラフを書き始めた。もし、私にとってのロックとは何かと問われたら、この件以来、数学を全く勉強していないことだろう。  そんなこともあって、徐々にベースを弾くことへの情熱が薄れていった頃のことだった。ある夜、自室でオナニーに耽っていた私は「いざ発射」となった瞬間、手元にあるはずのティッシュが切れていることに気付いた。このままでは床に精子をぶちまけるという大惨事になる。高校生の私は大パニックである。もはやこれまでかと覚悟を決めた私は、手近にあったベースを拭く布、いわゆるクロスを手に取り、その中に発射した。大切な楽器の手入れに使うクロスに発射してしまった私は、とんでもないことをしてしまった背徳感と共に、こんな自分はこの先ベースを弾いていく資格はないと思った。武士でいえば、日本刀を手入れする布に精子をぶちまけたのだから当然である。私は近所の中学生にベースをプレゼントしてやり、それ以来ベースを触っていない。  これは余談になるが、そのオナニーで気付いたことがある。クロスのようなシルク材質の柔らかい布でチンコを包むと本当に気持ち良い。マラソンのゴールで倒れ込む選手を包み込むあのタオルのような感覚に近いと言えば分かってもらえるだろうか。あれ以来、私は布で自分のチンコをしごく布オナニーの虜になった。今の若い世代の方達は、鼻セレブという、ティッシュの概念を変えるほどの肌触りが良いティッシュがあるのだから、オナニーには是非鼻セレブを使うとよい。鼻セレブでチンコを包んだ時に人生が変わる人もいるかもしれない。  そんなこんなで、楽器を止めてしまった私だが、音楽を聴くことは大好きだった。それは親父がたくさんのCDを私にプレゼントしてくれたからだ。悪質な当て逃げの罪で警察に捕まってしまった親父は、長年勤めていた会社をクビになった。だが、親父は強かった。前科者に対して風当たりが強い田舎の慣習に負けず、デパートの警備員に見事再就職を果たしたのだ。過去にオリンピック候補になりかけたほどアマチュアレスリングの実績がある親父。今では、デパートで不審者を見かけては、合法的にアマレスタックルを仕掛ける毎日だ。社会復帰おめでとう。  そんな親父が毎月50枚近いCDを持って帰ってくるようになった。いったいどうしたのかと問うと、デパートの中にあるレコード屋さんと仲良くなり、そのお店が毎月廃棄するサンプル盤をもらったのだという。「自分は音楽に興味がないから、お前にやる」と言って私の部屋にCDをドサッと置いて行く。特に吟味もせずにもらえるものをもらってきたと思われるそれらは、演歌、洋楽、ジャズ、アニメ、民謡などさまざまなジャンルがごった煮にされたものだった。タダなのに聴かないのはもったいないということで、私は手当たり次第に聴きまくった。それは、部屋の中に無造作に放り込まれた大量の見知らぬ魚達を一匹一匹食べられるのかどうか、どんな味がするのかを確かめるような作業だった。食べた瞬間に吐いてしまう魚もあれば、何回も食べれば癖になる魚もいた。  私はその作業から、たくさんの音楽と素晴らしい出会い方をした。たとえば「ビートルズはすごいんだぞ」とか「この曲は激しいからオススメ!」とかいらない予備知識を入れてから聴くと、その感動が薄れてしまう。「すごくいい曲だけど誰の曲だろう?」と調べてみてからビートルズの曲だと知ったほうが、「あ、やっぱりビートルズはすごいんだな」と感動できる。名前や肩書は関係ない。判断基準は自分が好きか嫌いかだけだ。この経験は大人になった今も生かされており、風俗の受付で、風俗嬢の余計なプレゼンをしてくる店員に対して、人差し指を唇に当てて「シー」とよく言っている。  前科者になってから、親父がその罪を私に謝罪したことはなかったと思う。私からそのことを責め立てることもしなかったが、二人の間には小さな溝が常に存在し、会話をする機会は少なくなっていた。そんな私達を繋いでいたのが、大量のサンプル盤CDだった。 「ほい、CD」 「ありがとう」  たったこれだけの会話しかなかったが、なんとなく良い思い出として私の記憶に残っている。大人になってから、実家に山積みになっているそれらを見て「これ、中古CD屋に売ったらすごいお金になるよ」と親父をけしかけたことがある。「本当に売ってもいいんか?」と確認を取ってから、親父は嬉々とした顔でCD屋に駆け込んだ。数分後に「見本盤は買い取れんと言われたぞ!」と血相を変えて家に帰ってきた親父を見て「知ってたよ」と私は笑った。  なんとなく思い出してみただけでも、音楽は常に私のそばにいた気がする。そして今また、愛しい女がよく分からない音楽をしているという形で、私の人生に音楽は関わってきているのだ。
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タクシー運転手に悩みを打ち明けた
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死にたい夜にかぎって

もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー!

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