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スタン・ハンセン 伝家の宝刀ウエスタン・ラリアット――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第49話>

 ハンセンが20年以上、日本のリングでメインイベンターのポジションをキープすることができたいちばんの理由は、ウエスタン・ラリアットという技をとことん大切にしたことだった。  ハンセンが左腕のサポーターをアジャストし、ラリアットを対戦相手の首に打ち込んだら、それは試合終了を意味していた。  ハンセンはめったにフォール負けを許さないレスラーだったし、ハンセンがめずらしくフォール負けを喫した試合は、ラリアットが“不発”に終わった結果だった。  ラリアットがまともに決まって、それを対戦相手がカウント2ではね返すというシーンはただのいちどもなかった。それがハンセンの哲学だった。  40代後半にさしかかったハンセンは、リングを下りるタイミングを探っていた。よきボスであると同時によき理解者であった馬場の突然の死(1999年=平成11年1月31日)がハンセンに引退を決意させ、同期の鶴田の早すぎる死(2000年=平成12年5月13日)がそれを決定づけた。  馬場の死から1年半後、三沢グループの20数選手とスタッフが全日本プロレスを退団し、新団体プロレスリング・ノアを設立した。  ハンセンは引退試合をおこなわず、『ジャイアント馬場引退興行』(三回忌)で“10カウント”のセレモニーだけをおこなった(2001年=平成13年1月28日、東京ドーム)。  後楽園ホールの5階の非常階段から身を乗り出して東京ドームの工事現場をながめていたハンセンは「こんなすごいものが建設されるところを目撃できるとは…」といってほほ笑んだ。たしか1987年(昭和62年)の秋ごろのことだ。  それから10数年後、オープンしたばかりの東京ドーム・ホテルの最上階のレストランで「あれはきのうのことのようだ」と、ちょっとだけトシをとったハンセンはふり返った。  日本とアメリカを1年じゅう往復する生活にピリオドを打ったハンセンは、自宅のあるコロラド州ホチキスの公立ハイスクールでフットボールとベースボールのコーチになった。 ●PROFILE:スタン・ハンセンStan Hansen 1949年8月29日、テキサス州ボーガー出身。本名ジョン・スタンリー・ハンセン。1973年1月、デビュー。新日本プロレス、全日本プロレスのメジャー2団体で活躍しNWFヘビー級王者、AWA世界ヘビー級王座、三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座などを保持。得意技はウエスタン・ラリアット。トレードマークはロングホーンと“ウィーYouth”という雄叫び。2001年、引退。2016年、WWEホール・オブ・フェームで殿堂入り。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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