ロスジェネ世代の発達障害者が就職難の時代を経て気がついたこと
1990年代後半から2000年代前半の就職率は過去30年でも最低水準でした(文部科学省『学校基本調査』より)。就労数を卒業者数から、大学院への進学者を引いた数で割ることで出てくる数値は、70%を割っており、この時期の就職が非常に難しいものとなっていたことを物語っています。当時、書類選考の通過は相当厳しく、たとえMARCHのような難関大であっても、バサバサと落とされてしまうという現状がありました。
光武「僕は就職から逃げちゃいましたからね。松村さんのきつさをわかると言っては失礼かなと思うので、気軽に口にできないなって感じますね」
松村「あの当時はプライドが高いわりに、いろいろ上手くいかないことが多くて、精神的にそうとう参ってしまった時期なんだよな。で、せっかく入社できたら正社員だから必死に働いたよ。すごく体育会の思考で、営業ノルマもきつかったな。池の中に10匹しか魚がいないのに、15匹釣ってこいと言われるような体質の会社でね。
ただADHDだからかわかんないけど、営業は得意でさ。新規案件はがっつり獲得できて、上司からのおぼえはよかったよ。書類めちゃくちゃで怒られることはあったけど(笑)。ただ、そんな環境で仕事をしているとついに心を壊しちゃってさ、会社を辞めざるを得なくなったんだよね。」
光武「本当に波乱万丈な人生ですね」
松村「一度離職しちゃうと、今度は再就職でも苦労してね。特に辞めた理由が理由だから、なかなか再就職先も決まらなくて、仕方ないから派遣で食いつないで、大学時代にバイトしてた予備校に戻ってくることにしたんだよ。なんだかんだあの頃が一番楽しかったんだよね」
光武「僕も似たような経験がありますよ。いろいろ仕事を考えたけれど、結局最後まで続けられたのは予備校の講師だけでしたから。
発達障害という診断を受けて、自分にとってできることの範囲外のことはかなり無理をしないとこなせないとわかったんですけど、予備校講師の仕事は、自分にとって無理なくできる仕事だったんだなとつくづく思います」
松村「そうだよね。僕も正社員時代、あのきついノルマをこなすのも、楽しいと言えば楽しかったからできたんだろうな。双極性障害と適応障害の診断が出て、非正規雇用の職に就いたときは人生終わったなと思ったけど、なんだかんだフリーランスでご飯食べられているし、結果オーライな人生なんだよ」
(みつたけ・すぐる) 発達障害バー「The BRATs(ブラッツ)」のマスター。昼間は予備校のフリー講師として働く傍ら、‘17年、高田馬場に同店をオープン。’18年6月からは渋谷に移転して営業中。発達障害に関する講演やトークショーにも出演する。店舗HP(brats.shopinfo.jp) ツイッターアカウント「@bar_brats」
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