電車の中での携帯電話、父親が危篤でも「かけたら迷惑」と思う日本人/鴻上尚史
親の死に目よりも大切?“他人に迷惑をかけない”という頑なな信念
朝日新聞の記事に以下のようなものがありました。
終電まぎわのJR長崎線の電車に乗っていた男性の耳元に聞こえてきた小声の会話です。
「病院まで遠い……」
「さいごの会話に……」
近くに座っていた60代くらいの男女。夫婦だろうか。2人で携帯電話を見つめている。
「電話した方がよかよ」
「迷惑になる。駅に着いてからでよかやん」
せかす妻。周囲を気にする夫。(中略)2人の声も少しずつ大きくなった。
「意識がなくても耳は聞こえるって。おとうさん、待っとるよ」
「列車だから、かけられんやん」
夫の父親が危篤で、駆けつけようとしている。でも間に合わないかもしれない。そんな状況が伝わってきた。どうぞ電話してください、と話しかけようか。いや余計なお世話かもしれない。でも――。
新聞記事によれば、男性は、緩和ケア病棟の看護師として何人もの患者を看取(みと)り、最期に間に合わなかった家族の姿も見てきた人でした。だからこそ、やっぱり声をかけようと思って立ち上がろうとした時――。
40代くらいの女性が夫婦に近づいた。
「電話した方がいいですよ」
周りの乗客も、大きくうなずく。
夫は携帯を耳にあてた。
「お袋、親父(おやじ)の耳元に携帯ば置いて」
それから、一気に話し始めた。
「親父が一生懸命働いてくれたから、俺たちは腹いっぱい飯が食えて、少しもひもじい思いばせんかった。心配しないでよかけん」
ありがとう、と語りかける言葉も聞こえてきた。電話を切った夫は下を向き、泣き声をこらえる。その肩を、妻がさすっていた。
しばらくして駅につくと、夫婦は周囲に頭を下げて降りていった。入れ替わりで乗ってきたのは、ほろ酔いの若い数人。車内が急に、にぎやかな空気に包まれた。
記事は最後に男性の思いとして、「『ひもじい』という言葉が耳にのこる。戦後の厳しい時代に育ててくれた父親への感謝だったのだろうか。『その声は届いたはず』。たまたま乗り合わせた自分が、見知らぬ誰かの最期を思う。車内みながそうだったように思えた。停車中に流れ込んだ師走の冷気は、いつの間にか消えていた」と締めくくられています。
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