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大田昌秀・元沖縄県知事死去 反基地知事は実はアメリカナイズされた人だった!?

 筆者は生前の大田氏に幾度か取材を申し入れたことがあるが、残念ながらいずれも叶わなかった。彼が亡くなった後、那覇で会った琉球大学時代の教え子にあたる元県幹部は、大田氏の考え方の底流にあるのは、「親米反日」だと言っていた。橋本政権をはじめ日本政府の対沖縄政策を厳しく批判し、もちろん米軍による沖縄統治にも著書『沖縄の帝王 高等弁務官』などで批判を展開したが、沖縄で最もアメリカナイズされた知識人だというのである。  大田氏は、米軍統治下の沖縄で苦学して英語を学び、早稲田大学の英文学科を経て米国東部のシラキューズ大学に学んだ。この時代の沖縄のエリートの証しである「米留組」である。  現在のハーバービューホテルにあった米国民政府の幹部職員らの社交クラブ・ハーバービュークラブを舞台に活動した「金門クラブ」のメンバーであり、会長を務めたこともある。金門クラブとは米国留学経験者からなる親睦団体。親米的な知識人層の形成を期待する米軍側の思惑もあり、米軍統治下の沖縄において米国と深い繋がりを持ち、パワーエリートとして特権的な立場を有した。そのため、「向米一辺倒」「アメリカの親衛隊」などと陰口を叩かれることもあったが、大田氏はそう見られることを嫌い、『沖縄の帝王 高等弁務官』のなかでこう書いている。 <宗主国もしくは植民国へ留学した人たちのあいだから逆に後年、母国の大衆の期待に応え、宗主国の利害に対立する形でみずからが学んできた知識・技能を活用した有能な指導者が輩出した事例はいくらでもある。したがって、留学先がアメリカだったということだけで、十把ひとからげに評価を下すことは、偏見と独断のそしりを免れ得ないことはむろんである>  ただ、大田氏は身につけたアメリカ的な生活スタイルを長く大切にし続けたという。 「ノリの利いた白いYシャツを着ることを好み、家族はハワイに暮らし、プライベートはしっかり休みを取る。知事在任中は、休みになると電話にも出ず連絡が取れなくなることがしばしばあり、県の職員は困ったものです」(元県幹部)  那覇最大の歓楽街の松山で数々のエピソードを残すほどの大酒飲みとして知られる大田氏がこよなく愛したのは、泡盛ではなくシーバスリーガル。ウィスキーを好む習慣は留学中の米国で身につけたものだと言われる。  その大田氏の知事在任中に、県議会で最も厳しく対立したのが、現知事の翁長雄志氏だ。 「保守、革新を超越した基地反対闘争の結集を訴えるのは県民向けの受けのいいポーズであり、マスターベーションにすぎないと同時に、県民の結束をみずから放棄していると言われても仕方がありません」  かなり品のない発言だが、1994年3月7日に開かれた県議会本会議ではこう大田氏をなじっている。発言の揚げ足取りを得意とする翁長氏に、大田氏が顔を真っ赤にして怒り出して「そんなに言うのならあんたがやってみろ」と言うので、議場が大爆笑となったこともあると自民党の元県議から聞かされたこともある。  そういう経緯もあったからなのか。翁長氏が「オール沖縄」を掲げて知事を目指すようになっても、大田氏はまったく評価しようとせず、知事選で応援することもなかった。この頃、東京外大教授の山田文比古氏のインタビューに、名指しこそ避けつつも、翁長氏についてこう喝破している。 「私が県知事であったときに基地反対に一番抵抗していたのが、今頃になってオール沖縄などと唱えている連中だ。そうした過去の経歴や主張を見ると、信用できない。いつ変わるか分からない連中だ。(中略)この連中がいんちきなことを始めているとしか私には思えない」(『オール沖縄VS.ヤマト 政治指導者10人の証言』(青灯社))  大田氏が亡くなった日、翁長知事は県庁で会見し、「今後も沖縄の歴史や沖縄戦の実相を後世に伝え、平和創造に向け中心になって取り組んでいただけると思っていたが、かなわぬこととなり残念でならない」とコメントした。  生前はけっして大田氏と良好な関係だったとは言えない翁長知事だが、7月26日に県が主催して宜野湾市内で県民葬を開くことを決めた。  当選以来、政府との対決姿勢で臨み、名護市辺野古沖の埋め立てをめぐり政府と法廷闘争を続ける姿は、米軍用地強制使用の代理署名をめぐり政府と最高裁まで争った大田氏のそれに重なるものがある。沖縄の戦後史に大きな足跡を残した先達に自らを重ねあわせているのだろうか。 <取材・文/竹中明洋>
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沖縄を売った男

翁長氏とはまったく異なるアプローチで沖縄の基地負担軽減に取り組んだ仲井眞氏を通して、基地問題を見つめ直した一冊

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