更新日:2017年11月16日 20:10
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革命を目指した同志12人をリンチ殺害…連合赤軍・植垣康博が当時を振り返る【大量殺人事件の系譜】

 ともに「革命」を目指していた同志に、山岳アジトで「総括」と呼ばれるリンチを加え、ナイフで心臓をえぐる。殺害された仲間は12人。メンバーは直後、「あさま山荘事件」を起こし社会が震撼した。一連の事件で16人が起訴された。
植垣康博

「連合赤軍」の結成に参加した植垣康博氏は現在、静岡市葵区でスナック「バロン」を経営する

連合赤軍リンチ殺人事件(1971~72年)大量殺人事件の系譜~第12回~

 安保闘争やベトナム反戦、大学の自治を訴える学生運動。1960年代から1970年代にかけて、若者を中心に政治的な運動が勢いを増していた。反資本主義を掲げ、「社会を変えよう」という機運が高まると同時に、そこには、武装蜂起した闘いをも辞さない過激な思想があった。  1960年の安保闘争の少し前、暴力革命路線を放棄したそれまでの左翼に対し、直接的な行動を志向する「新左翼」が生まれた。後に「過激派」と呼ばれるグループだ。60年代半ばになると、新左翼は認知を得る。日米安保条約反対と反ベトナム戦争の闘いが、一定程度の理解を得たからだ、ただし、火炎瓶やゲバ棒などで機動隊と過激にぶつかり合う実力行使には、否定的な見解がほとんどではあったが。  新左翼のグループの一つが内部抗争から分派し、新左翼の最も過激な「赤軍派」を組織した。赤軍派は1971年3月、日本で初めてのハイジャック「よど号事件」を起こした。これは、世界同時革命論による国際的な根拠地を建設することが目的で、9名の赤軍派メンバーが北朝鮮に渡った。  よど号事件に前後して、赤軍派の活動家で明治大の学生だった重信房子が、新たにメンバーを集めた日本赤軍が組織され、イスラエルのテルアビブ空港での銃乱射事件や、大使館占拠事件などを起こした。一方で、赤軍派の残りのメンバーと、毛沢東に影響を受けた「革命左派」を中心として、1971年の暮れに「連合赤軍」が結成されることになる。  新左翼の活動家たちは、沖縄返還、大学に対する団交要求、大学封鎖などが続き、首相官邸襲撃計画を練っていた。当時、弘前大学生だった植垣康博氏(67)は、赤軍派に加わり、のちに連合赤軍結成に参加した。植垣氏が振り返る。
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赤軍派から「爆弾を作ってほしい」と依頼された
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兵士たちの連合赤軍

植垣康博の自伝的記録

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