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西城秀樹は洋楽ロックもメタルもアニソンも歌った! 日本歌謡界の地平を開いた功績をたどる

<文/山野車輪 連載第29回>

日本語ロック、洋楽カヴァーのオリジネイターだった西城秀樹


西城秀樹

写真:西城秀樹公式サイト(http://www.earth-corp.co.jp/HIDEKI/)より

『鬼神童子ZENKI』でお馴染みのマンガ家=黒岩よしひろ先生が、5月8日に心筋梗塞により亡くなっていたことが、16日に報じられた(享年55)。同日の16日に、多数のヒット曲で一時代を築いた歌手=西城秀樹氏(以下、ヒデキ)も、急性心不全のため亡くなった(享年63)。

 今週は、ヒデキの急逝の話題で持ちきりだ。と言うのも、氏はかつてトップアイドルとして君臨していたのだから当然のことだろう。歌謡曲界における氏の業績は非常に大きい。

 71年生まれの筆者は、幼少時、「ヒデキ、感激!!」のTVCMでお馴染み「ハウスバーモントカレー」の甘口を食べて育った世代だし、歌番組での「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」におけるアグレッシヴな振り付けも記憶に残っている。

 とは言え、物心つく前の頃の記憶であり、そもそも筆者はマンガやアニメが好きな子どもだったことで、歌謡曲界で活躍する芸能人=西城秀樹に対する思い入れは薄かった。そして、若い世代から見れば、単に昔有名だった元アイドル歌手という認識ではないだろうか。

 ではなぜ本連載でヒデキを取り上げるのか。それは、氏がアイドルという枠におさまらず、日本の歌謡曲に洋楽ロックを取り入れた先駆者であり、歌謡メタルの源流に位置するロック歌手だからだ。

“ロックの土着化”が始まった1972年にデビュー


 氏は1955年、広島に生まれ、バンド活動していたところをスカウトされて、1972年3月に「恋する季節」でデビュー。翌1973年、5枚目のシングル「情熱の嵐」がヒットチャートで初のベストテン入りして、同時期デビューの郷ひろみと野口五郎とともに“新御三家”と呼ばれるようになり、トップアイドルとして人気を博した。

 ヒデキがデビューした1972年頃は、ミュージシャンなどの間で、ロックは日本語と英語、どちらで歌うべきかとの「日本語ロック論争」が行なわれていた。はっぴいえんどが1971年に発表したアルバム『風街ろまん』にて、ロックのメロディに日本語の歌詞を乗せることに成功させたことで、この論争に一応の終止符が打たれた。また翌1972年、日本語と英語が混ざった歌詞と矢沢永吉の巻き舌歌唱によるキャロルの登場により、この論争はどうでも良いこととなった。この頃は、ロックの土着化が始まったばかりの時代だった。

 ヒデキのヒットチャート入りは、1973年のことである。“新御三家”の郷ひろみと野口五郎との差別化を図るため、ヒデキはエネルギッシュな路線を売りとすることになった。その際、「絶叫型」と言われたヴォーカルスタイルや「アクション歌謡」と言われた激しい振り付け、そして「薔薇の鎖」(1974年)にていち早くスタンドマイクを使ったアクションを取り入れ、後の日本人ヴォーカリストに多大な影響を与えたのだった(当時、多くの子どもたちに真似された)。

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数々の洋楽ロックカヴァー曲を発表

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