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新天皇が即位する前に、新元号を発表してしまう安倍政権の大問題/倉山満

― 連載「倉山満の言論ストロングスタイル」―

言論ストロングスタイル

8月1日、皇位継承式典事務局お看板を掛ける安倍首相(中央右)と菅官房長官(同左)。左端は山崎事務局長、右端は杉田官房副長官。無表情の杉田氏の胸中は……?(写真/時事通信社)

今年は平成最後の年となる。さて、そもそも改元とはどんなときに行われるか?


 いよいよ、平成最後の年となる。我が国で4番目に長い元号だ。

 我が国で最も長い元号は、昭和の64年。次が明治の45年。ここまでは日本人ならば誰でも知っている。では3番目となると、よほどの歴史通でなければ出てこないだろう。応永の35年だ。室町時代の元号で、西暦で言えば1394~1428年にあたる。明治に一世一元の制、「一人の天皇の代に一つの元号」という制度が定められる以前では、最も長い。ちなみに5位(前近代での2位)が延暦の25年、6位(同じく前近代の3位)が正平の24年であり、30年続いた元号は応永のみである。

 では、なぜ応永の元号は長くなったのか。時の権力者に振り回されたからである。

 応永は、足利三代将軍義満と、息子で四代将軍の義持の二人の時代の元号だ。最初、義満は応永から別の元号に改元しようと朝廷に提案したが拒否された。これに怒った義満は意趣返しで自分の生きている間は、改元を許さなかった。継いだ義持は応永の元号に愛着を抱いていたらしく、これまた改元をさせなかった。

 また、元号が政争の具と化した例もある。戦国乱世を収束させんとした織田信長は、上洛した際に「天正」の元号を提案した。文字通り、「天に代わって世を正す」の意味である。自分の力で乱れた世の中を正そうとする、実に信長らしい元号だ。しかし、室町幕府十五代将軍足利義昭に拒否された。義昭は信長に擁立された将軍ではあるが、傀儡になる気はない。信長が望む「天正」の元号を認めれば、世の中の中心が信長であると認めることとなる。義昭とて自分を将軍にしてくれた実力者の信長に感謝し、あらゆる名誉と利権を提供したが、元号だけは許さなかった。

 天正の元号は、信長上洛から5年後、義昭を京都から追放した時にはじめて実現した。信長はこの元号に愛着を持ち、信長存命中は朝廷の誰も改元を申し出なかった。天正こそ日本が信長の天下であることを示す元号だったのだ。

 さて、そもそも改元とはどのような時に行われるか。天皇の代替わり、吉事があった時、凶事があった時、干支のめぐりあわせである。これらの建前の下で、朝廷と時の権力者の思惑で行われてきた。

 改元は本来、天皇の大権である。しかし、実態は時の権力者の思惑に左右され続けてきた。最も蔑ろにされてきた天皇大権であると評しても過言ではない。だから、改元に際して多少のさざ波が立とうとも、それだけで天皇の権威に瑕がつく訳ではない。その程度で皇室はビクともしないのだ。

 だが改元を利用して、意図的に天皇や皇室の権威を貶めようとする者がいたら、国民はその者の名を心に刻まなければならない。

 明治以降、改元の規定は皇室典範で定められていた。それが敗戦に伴い旧典範は廃止され、元号は成文法上の根拠を喪失、慣習法として存立してきた。

 こうしたことから、元号廃止運動が学界や言論界を中心に盛り上がり、逆に元号法制化運動も自民党を中心に進められた。結果、元号法が定められ、成文法としての根拠を回復することとなった。この法律はたった2条だけである。

第1条 元号は、政令で定める。
第2条 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。

 読めばわかるように、一世一元の制の成文化である。天皇の代替わりの時にしか改元できない。そして現行法では、新元号の発表は代替わりの後にしか行えない。

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安倍総理の元号「事前公表」はいいのか?

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