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新型コロナウイルスで国家経済を止める合理性は何なのか/倉山満

問題の正解を見つけるなど、学問でもなんでもなく、単なる技術にすぎない

言論ストロングスタイル

「感染症を抑え込むために大変重要な局面」「花見なども感染拡大に繋がる」と政府は訴え続けているが、後出しジャンケンのような延長はいつまで続くのだろうか 写真/朝日新聞社

 アメリカ合衆国は実学炸裂の国である。そんなアメリカで、博士号の正式名称はDoctor of Philosophyだ。略称はPh.D.ラテン語のPhilosophiae Doctorに由来する。  直訳すれば、「哲学博士」だ。学問とは真理真実の探求であり、医学であろうが、経済学であろうが、学問すなわち哲学の一分野だとの建前なのである。ただし、完全に形骸化しているとは言い難い。哲学とは、「何のために」を考えることである。医学のその研究は何の為にあるのか。経済学のその研究は何の為にあるのか。優れた研究は「何のために」を証明しているので、必ず意義(Contribution)がある。  では、日本の医学部はどうか。  実は私は大学で医療従事者(救急救命士)を目指す学生に生命倫理を講じていたことがあるし、何かと医師や看護師との接触も多い。だから実態をかなりわかっているのだが、医術は日進月歩なのに、反比例して医学は置き忘れられているとの感を禁じ得ない。

どこに哲学があるのか

 一例である。「重症患者が運び込まれた。輸血をすれば必ず治るが、患者本人は信仰上の理由で輸血を拒否し、ドナーカードを持ち歩いている。担当医師は、どのようにするのが適切か」などという問題がある。正解は「医療訴訟のリスクがあるので、輸血をしてはならない」である。次から次へと出される問題を、何も考えずに処理していき、正解を答え続ける。そうする内に、職人が技術を体で覚えるように、医術を身に着けて医者になる。さて、どこに哲学があるのか。  件の例では、治療すれば助かる命が目の前にあるのに、「助けてはならない」が正解とされる。古代ギリシャの「ヒポクラテスの誓い」以来「人の命を助けたい」は如何なる悪徳医者すら共有できた建前であった。ところが現代日本では、「死にたい奴は死なせろ」が正解とされる。  稀に、疑問を持つ学者がいる。私も憲法学者として、学会で議論したことがある。こういう時、頭が良い学者に限って「無輸血医療の技術を磨くべきではないか」と主張する。確かに、無輸血医療の技術が磨かれれば、命と信仰を同時に救うことができる。そうした技術は磨かれるべきだろう。ただし、それは学問ではなく技術の話だ。  学問として真理を探求するならば、次のような設定をすべきではないのか。 「この世にただ一人の難病の患者がいる。ただし、その難病は輸血をすれば必ず治る。ところが、そのたった一人の患者は、輸血を拒否する信仰の持ち主であった。その病気に無輸血医療は効かない。医者として、どのように振舞うべきか。現在の日本の憲法解釈、判例、法の運用、医療実務では、本人が望むなら死なせよ、が正解とされる。この正解の根拠は何か」  この一例だけでも、問い続けると学術論文になるのでやめるが、「正解の根拠」を問い続ける哲学が、学問である。また、何が問題なのかを探す姿勢も学問である。問題の正解を見つけるなど、学問でもなんでもなく、単なる技術にすぎない。ついでに言うと、受験勉強は正解探しの技術を競う単なるゲームである。
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