スタン・ハンセン 伝家の宝刀ウエスタン・ラリアット――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第49話>
スタン・ハンセンをプロ野球選手にたとえるとするならば、“外国人助っ人の最強4番バッター”である。
アントニオ猪木、ジャイアント馬場からジャンボ鶴田、天龍源一郎、そして三沢光晴をはじめとする“四天王世代”まで歴代の日本のトップスターたちと闘いつづけ、28年の現役生活のうちの24年間を日本のリングで過ごした。
ドリー&テリーのザ・ファンクス、ダスティ・ローデス、ブルーザー・ブロディらと同様、ハンセンもウエスト・テキサス州立大フットボール部出身で、大学を卒業と同時にNFLボルティモア・コルツからドラフト11位指名(1972年)を受けたが、シーズン登録メンバー入りできずに退団。
1973年、プロレスに転向した。ルーキー時代、J・鶴田、ボブ・バックランドらいっしょに安アパートを借り、テキサス州アマリロをサーキットしたことはあまりにも有名なエピソードだ。
デビューから1年後、ルイジアナ(リロイ・マクガーク&ビル・ワット派)で大学の先輩ブロディと再会し、タッグチームを結成した。
この時代のハンセン&ブロディのパブリシティ写真をみると、ふたりは色ちがいのカウボーイ・ハットをかぶり、ややぎこちないファイティング・ポーズをとっている。
「タッグチームらしい写真を撮ろう」といったのはブロディで、「だったらカウボーイ・ハットをかぶろう」と提案したのがハンセンだった。
ブロディがかぶっているカウボーイ・ハットはハンセンが貸したものだったが、ブロディはルイジアナ・ミシシッピー地区をツアー中にそのカウボーイ・ハットをどこかのレストランに忘れてきてしまったのだという。ブロディは髪を伸ばしている最中だった。
初来日は全日本プロレスの『ジャイアント・シリーズ』(1975年=昭和50年9月)。キャリア2年、25歳のハンセンの髪の色はまだブリーチ系の金髪で、タイツの色は水色。リング・コスチュームには薄茶色のスエードの革ベストを着ていた。
シリーズの主役はアブドーラ・ザ・ブッチャーとオックス・ベーカーのふたりで、ハンセンはほとんどTVマッチにも登場しなかった。
スタン・ハンセンの名をアメリカのプロレス史に刻むことになった試合は、マディソン・スクウェア・ガーデンでのブルーノ・サンマルチノとのタイトルマッチだった(1976年4月26日)。
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