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中村俊輔「僕がジュビロ磐田に移籍した本当の理由」

日本サッカー界を長らく牽引してきたこの天才司令塔を知らない人はいないだろう。’97年に高校を卒業し、Jリーグ入りを果たしてちょうど20年。’02年からはレッジーナ、セルティック、エスパニョールと海外を渡り歩き、世界でもその名を轟かせた。’10年に古巣の横浜F・マリノスに復帰するも、今季からジュビロ磐田に電撃移籍、10番を背負う。キャリア20年のベテラン選手が今、自身のサッカー人生、そして電撃移籍の真相に改めて思いを馳せる――。 中村俊輔――今季ここまでを振り返っていかがですか。 中村:やりたいこととやらなければいけないことが、まだたくさんあります。それはチームに対してもそうですし、自分自身に対してもそう。ピッチでは、まだ20%くらいしかできていないのが現実。長いことマリノスにいたので、まだジュビロにいることが不思議な感覚になるときもあります。だからこそ早くいいプレーをして、ジュビロに染まるというか、クラブにもサポーターにも自分を取ってよかったと思われるように示さないといけないと思っています。 ――第6節(4月8日)には日産スタジアムで古巣との対戦(1対2で敗戦)もありました。 中村:勝てた試合でしたね。後半の最後に4回ミスった。無心でいこうと思ったけど、ちょっと変な感情もあったりして。もちろん、マリノスの選手やサポーターに対しては感謝の気持ちしかなかったですが、もう少し気持ちを出してもよかったのかなぁ。ちょっと落ち着かせすぎたというか冷静にいきすぎました。 ――磐田に来て、何か感じたことはありますか。静岡はサッカー王国と言われることもありますが……。 中村:静岡は新聞社も地元のテレビ局も、サッカーに対してはホント一生懸命ですよね。そんなに追っかけなくてもいいでしょってくらい取材して、試合が終わればすぐに編集して放送していますし。それに、この前うなぎを食べに行ったら、地元のオバちゃんに「ボール蹴ってる人だよね?」って言われました(笑)。年配の方でもよくサッカーを知っていますし、それくらい街にサッカーが根付いているってことですよね。街はのどかで、人の温かみを感じます。 ――海外での移籍は何度も経験していますが、国内での移籍は初めて。葛藤はあったと思いますが、移籍の決め手は何だったのでしょうか。 中村:マリノスを退団しようとなったときに、一番に声をかけてくれたのがジュビロの名波さんと服部さんでした。そこは大きかった。ジュビロは一度J2に落ちてしまったけど、これからまた上がっていくなかから多くのことを学べると思ったんです。それと名波さんはまだ選手の感覚が残っている監督。自分も将来は指導者になりたいという思いもあるので、現役時代一緒にプレーしていた人が監督としてどんな指導や振る舞いをしているのかを見てみたかったというのもありました。 ――具体的に言うと? 中村:選手に投げかける言葉もそうですし、例えば僕みたいなベテランや若い選手の扱い方、クラブとのやり取りなどですね。名波さんはもともとボランチだったので気配りや目配りが利きますから。(過去に指導を受けた)アルディレスやストラカン、ポチェッティーノもそうでしたが、代表まで上り詰めた人が監督をやっている場合、選手との接し方や発する言葉はやっぱり違う。ある局面のプレーについても簡単に答えを言わず感覚でしゃべる部分があって、それを理解して、生かす楽しみがある。名波さんも気づかせる指導っていうか「あれやれ、これやれ」っていうことは、ほとんど言わないですから。もちろん、ミニゲームとかでつまらないミスをすれば「プロは見せてなんぼ。ファンタスティックにお願いします!」なんて言っていますけど(笑)。 ※このインタビューは6/6発売の週刊SPA!のインタビュー連載『エッジな人々』から一部抜粋したものです。 【中村俊輔】 ’78年、横浜市生まれ。桐光学園高から’97年に横浜M(現横浜)入り。’02年にレッジーナ、’05年にセルティックに移籍し、エスパニョールを経て、’10年に横浜に復帰。’00年と’13年にJリーグMVP。日本代表として2度(’06年、’10年)のW杯に出場。178cm、70kg 取材・文/栗原正夫 撮影/ヤナガワゴーッ!
週刊SPA!6/13号(6/6発売)

表紙の人/ キン肉マン

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