家族や子供のために女装をやめられるか?――女装小説家・仙田学の決断
自由に生きて、自分の選択に責任を持てる人間になってほしい。
わが子に対するその願いは、もし家族のために女装をあきらめたとしたら口にすることができなくなる。
願いの根拠を問われたときに、
「お前のためにパパはやりたいことをあきらめたんだよ。でもお前は……」
とは答えられないから。
それに、自分の意思ではなく世間体を気にして女装をやめてしまうなら、世間体の理不尽な圧力から解放されることを願っている人々を、苦しめる側に加担することになってしまう。
日常的に女装をしていた大阪芸大時代に、私は部落解放研究会の部長兼、唯一の部員だった。いろんな方面の方に怒られるかもしれないが、私のなかで女装と解放研の活動とはパラレルなものだった。
長引いた思春期と反抗期の真っ盛りで、私は内側から湧きあがってくる衝動を持て余していた。エネルギーはふんだんにあるのだが、それをどこにどう使えばいいのかがわからない。
自意識にがんじがらめにされていた私は、解放という2文字に惹かれて活動に身を投じた。
日雇い労働者への炊き出し。
デモ。
ドヤ街での夏祭りの運営。
のめりこむほどに、まわりの活動家の方々への違和感は募っていった。
若さゆえの思い上がりもいいところだが、差別や偏見の対象となっている人々よりも、むしろ解放すべきなのは彼らのほうではないかと思えたのだ。
ヘルメットとマスクとサングラスで身を隠してデモ中に警官と小競りあいをし、つねに盗聴や盗撮に脅え、家族よりも活動を優先させる彼らの生活は、自分の閉塞した日常と重なった。
やがて私は部室の壁いちめんをピンク色に塗り替えて、「部落解放研究会」の名称を「野外散歩部」に変更する。
悪あがきにすぎなかった。ほどなく私は野外散歩部から離脱する。
前回の記事に書いたように、スカートを履いて大学構内の芝生に寝転がり、「野麦峠!」と叫んでいたのはこの頃のこと。
自分自身が何かに囚われている人間が、他人を解放することなどできない。
そう気づいた私にとって、女装は、どうにかして自分自身から逃れようとあがく営みになっていった。
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