ある都内から

 大阪で生まれ育ったが、25年前に上京した私は、あの関西の大震災を”対岸の火事”として、テレビでただ”見物”していた。

 3月11日のその時、おそらく大半の都内在住者と同様に本格的な震災を経験したことのない私は、築20年を越えたビルの10階にいた。

 最初は、ああ揺れてるな……程度にしか、いつものように……くらいにしか思っていなかった。

あれ、止まらない? いつもと違う? 

 そう感じたのは、揺れがはじまって10秒ほどの頃からだろうか。

 周囲の本棚や物置棚が無秩序に決壊する。まず火を止めた。次に死守したのは自分でも信じられなかったがノートパソコンだった。それからニット帽を急いでかぶり机の下にもぐった。左方向からブシュッという音がした。水道管が破裂して廊下が水浸しになっている。どうにかするにも揺れが激しすぎてどうにもできない。洗濯かごを倒して、まだ洗っていないシャツだとかパンツだとか靴下だとかバスタオルを、廊下を流れる”川”に散乱させるのが精一杯だった。

 揺れはようやくおさまったが、それがどれくらいの時間だったのかは、覚えていない。ほんの30秒足らずだったのかもしれないし、10分以上にもわたったのかもしれない。アロマキャンドルが割れていて、部屋中に不似合いな癒しの香りが充満していた。

 片っぱしから探り当て見つけた水道の元栓を閉め、ノートパソコンと携帯電話とそれぞれの充電器と財布と毛布を紙袋に詰めて、ダウンジャケットを羽織り、玄関を出る。

 案の定、エレベーターは止まっていた。あまりに心細い柵でしか守られていない非常階段を下りるのは嫌だったが、古いビルの10階に留まっているのも嫌すぎると判断した。

 「よっしゃ、行くでぇー!」と自分に言い聞かせ、頬を二回ぱんぱんと叩いてから階段を下りる。余震なのか、ついさっき刷り込まれたばかりのトラウマのせいか、身体の重心がグラグラと定まらず、なかなか足がすすまない。

 やっとの思いで一階まで降りて目の当たりにした光景は、まったくもって予想外だった。

 人たちは普通に歩いている。談笑している人さえ多かった。拍子抜けだ。地上はそんなに揺れなかったんだろうか? 紙袋からはみ出たネコのキャラクターが大きく描かれているピンクの毛布が気恥ずかしい。

 だが、よくよく観察すると人の流れは、あきらかにいつもと違っていた。ほとんどの人が同じ方向に向かって歩いているのだ。

どこに向かっているんですか?

 となりを歩く人に聞いてみると、どうやら最寄りの小学校に向かっているらしい。

 小学校前の公園に着くと、すでに200人近くの人が集まっていた。しかし、防災ファッションで身を固めているのはパッと見渡したところ、塩化ビニール製の防災ずきんをかぶった幼稚園児を除く、私だけだった。様々な年齢層のサラリーマンにOL、地元の商店街に親父さんにモデルのようなおねえちゃん、保母さん、保父さん……そんな人たちが、ワンセグやi-Phone片手に情報をさかんに交換し合っていた。むしろ、普段時には経験できない見知らぬ人との連帯感を楽しんでいる雰囲気すらある。古いビルの10階で水道管が破裂、というのは都内ではわりと大きな被害を被った部類に入るのではないか。2時間も経つと人もまばらになってきたが、緊急の地震速報を伝える聞いたことのないケータイメールの着信音に、さらにビビってしまった私は部屋に戻るのが怖くて、その公園前にある2階のカフェで22時近くまでねばり、そこからようやく部屋に戻る決意を固めた。

 23時をすぎた頃、とにかく水を買っておこうと街に出た。

 その後、帰宅難民とならざるを得ない人たちで街中は溢れかえっていた。駒沢通りを郊外に抜ける車線は大渋滞で、車はぴくりとも動かない。あるOLのグループが「日比谷線は動いているらしいよ」と改札方面に駆け出し、一瞬人が群がったが、デマだった。駅近くのパチンコ屋では、たったひとりしかいない客がドル箱を3つ、積んでいた。前を歩いている20代のサラリーマンが、「電車が動かないから帰れないんだよ〜。お願いだから泊めてよ〜」と、ここらあたりに住んでいるらしき、”彼女”とまではいかない関係であろう女性に、携帯電話で懇願をしている。「え〜マジですかぁ?」とお茶を濁す返事が、受話口から漏れ聞こえてくる。

 驚くべきことに、あるガールズバーはいつも通りに営業していた。

 あるカラオケ屋は帰宅難民の人たちのために、通常なら団体客しかリザーブできない大部屋を朝まで千円で開放したと聞く。あるキャバクラは朝まで帰れないお客のために大幅な値下げサービスを行ったと聞く。いくつかの海外のメディアが、未曾有の大災害を前に動揺の色を見せず冷静な行動に終始する日本人を賞賛したそうだが、こんなたくましい商魂とボランティア的精神を器用に結びつける国民性も賞賛の一端に含まれているのかは、よくわからない。

 3月14日の19時。私はさっきまで、とても脳天気な原稿を書いていた。締め切りが迫っているので書いて入稿した。まだ進行途中の仕事も複数残っている。私のところに来る仕事だから、当然のことながらそのすべてが大なり小なり脳天気だ。破裂した水道管の修理は順番待ちで、あと何日でその順番がまわってくるのかは、まだ見通しが立っていない。トイレを流したり歯を磨いたりするための水を、近所の公園まで空のペットボトルを持って、汲みに行く。街はいつもと変わらないようにも見えるが、何処か蔓延的な緊張感がただよっているようにも見える。調理素材切れで店を閉めていた吉野屋とケンタッキーが営業を再開していた。私が原稿を書く場所としてよく使う、行きつけの23時closeのカフェは、まだ19時半だというのにラストオーダーを聞きに来た。駅前のパチンコ屋は18時以降の営業を自粛するらしい。スーパーに行くと、ミネラルウォーターや野菜や米や卵や豆腐のコーナーが、物の見事にすっからかんになっていた。「人気娘に空き枠が……大チャンス!」と、得体の知れない風俗店からパソコンにメールが届いていた。そして、ほぼ同時刻に「アポイントの進み具合はいかがでしょう?」と、某編集者からの催促メールも届いていた。

 正直言って、どのテンションで仕事に臨めばよいのか、とても戸惑っている。

 仕事が手に付かないので、この原稿を書いている。

 原稿を入力して、確認のためこのブログを開いてみると、右上には屈託のない表情の私が、「山田ゴメスの俺の恋を笑うな」とタイトルを叫んでいる。

 東北の人たちは、私たちなんかとは比べものにならない深刻な状況下で歯を食い縛っている。

 大災害における、もっともの幸運とは、大切な人と”偶然”いっしょにいることができた場合なのかもしれない。少なくとも、その人の安否を心使う、途方もないストレスからだけは解放されるのだから。

 ただただ、ひとりでも多くの方たちの無事を祈るばかりである……。

2011.03.15 |  2件のコメント

PROFILE

山田ゴメス
山田ゴメス
1962年大阪府生まれ。マルチライター。エロからファッション、音楽&美術評論まで幅広く精通。西紋啓詞名義でイラストレーターとしても活躍。著書に『「若い人と話が合わない」と思ったら読む本』(日本実業出版社)など
『「若い人と話が合わない」と思ったら読む本』(日本実業出版社)
『「若い人と話が合わない」と思ったら読む本』(日本実業出版社)
OL、学生、フリーター、キャバ嬢……1000人以上のナマの声からあぶり出された、オヤジらしく「モテる」話し方のマナーとコツを教えます

“ある都内から” への2件のフィードバック

  1. 今野舞子 より:

    先日山手線内でバックごとすられてしまったファッションライターアシスタント希望の今野舞子です。(全て、全てすられました!何も残ってません!)
    街は治安が悪くなってきているのでしょうか?
    人は歩いていないのに、、。

    仙台市荒浜では親戚家族が未だ行方不明です。
    あの寒い東北地方で、被災者の方がどれだけの寒さに耐えられているのか
    私には想像ができます。
    ただただ心が痛いです、そして祈るばかりです。。

  2. beco より:

    おつかれさまです。
    あの日歩いて帰った女性の中には、暴行にあった方も多数いたようです。
    みんなが平常心で親切ならよいのですが……

    被災地の気温が一度でも上がり、
    燃料や物資が早く届きますようわたしも祈るばかりです。
    募金くらいしかできませんが。

    ゴメスさん、お大事に。

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