安倍内閣が史上最長…無能な働き者に限って地位にしがみつく典型だ/倉山満
中野が宰相の理想と目した桂太郎とは、どのような人物だったのか?
弘化4(1848)年、長州の名門武士の子に生まれる。維新の時代は、殿様の小姓だった。明治初年以来、一貫して陸軍に従事。帝国陸軍の創設にかかわる。
第三師団長として名古屋に赴任した直後には東海大地震に直面し、大混乱の中で軍を動かし、秩序を回復する。規定にない行動であったので責任を感じて事後に辞表を提出したが、かえって果断を称揚された。その後、日清戦争に従軍している。
戦後は台湾総督として経営に当たる。台湾ではゲリラが暴乱を起こし、結果的に討伐戦での戦死者は日清戦争を上回るが、鎮圧に成功する。
内地に帰還後は4代の内閣で陸軍大臣を務め、日露戦争に備える。その間、直面した北清事変に対処する。日本史初の多国籍軍への参加だ。この時の帝国陸海軍の行動は世界中に文明国の軍隊であると知らしめたが、要所で国際情勢に明るい桂の判断が国策となったからだった。
明治34(1901)年、桂は首相となり第一次内閣を組織する。この内閣は当初こそ「二流内閣」と揶揄されたが、4年半の長期政権となる。日英同盟を結び、日露戦争を勝ち抜いた。当時の大英帝国は「光栄ある孤立」を誇り、「同盟のような煩わしいものは不要」と豪語していた。
ロシアは幕末以来日本に最大の脅威を与え続けた大帝国である。幕末以来の日本人の悲願は、「誰にも媚びないで生きていける強い国になる」だったが、まさに桂内閣において実現したのだった。
桂は、いったん退陣するが、明治41年に返り咲き、第二次内閣の政権担当期間は3年強に及ぶ。日露戦後の厳しい財政状況への対処を最優先課題としつつ、日韓併合と不平等条約の完全撤廃を成し遂げた。これだけのことをやりながら、「第一次内閣に比べ実績がない」と厳しく自己評価していた。
日清戦争の勝利や大日本帝国憲法の制定などを成し遂げた伊藤博文と桂のいずれかが、憲政史上最高の総理大臣であるのは間違いなかろう。
1973年、香川県生まれ。救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中から’15年まで、国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務める。現在は、「倉山塾」塾長、ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰。著書に『13歳からの「くにまもり」』など多数。ベストセラー「嘘だらけシリーズ」の最新作『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)が発売中
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