更新日:2022年07月24日 17:53
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GHQ支配下で起こった12人毒殺の冤罪「帝銀事件」はまだ終わっていない【大量殺人事件の系譜】

 大量殺人はこれまで幾度となく繰り返されてきた。「事件は社会を映す鏡」という。いくつかの事件を振り返りながら、浮かび上がる時代と事件の背景を探り、大量殺人事件の系譜を考察する。 帝銀事件

帝銀事件(1948年)大量殺人事件の系譜~第4回~

 発生から68年が経過しても、事件は何も終わっていない。被疑者が逮捕起訴され死刑が確定し、一応の決着はみたものの、いまだ冤罪が強く疑われているのだ。  12人が毒殺され現金などが奪われた「帝銀事件」は、戦後犯罪史に残る大量毒殺事件である。1948(昭和23)年1月26日。東京都豊島区にある帝国銀行椎名町支店に、「厚生技官・医学博士」の名刺を持ち、「防疫消毒班」の腕章をつけた中年の男が現れてこう言った。 「近所で赤痢が発生したので、予防に来た」  男は行員16人に予防薬と称する青酸化合物を服用させ、うち12人を殺害。現金16万円あまりと額面1万7000円の小切手を奪って逃走した。
帝銀事件

『アサヒグラフ』1948年2月25日号には「帝銀事件」の写真が掲載された(撮影/毎日新聞社)

 捜査は一筋縄ではいかなかった。毒殺ということなどから素人に犯行は難しく、旧日本軍関係者、特に、細菌を研究していた七三一部隊の関係者が捜査線上に浮かんでいた。ところがなぜか、GHQの要請で捜査方針が変わる。これは、七三一部隊に関するある事実が発覚するのをGHQが恐れたため、といわれている。決定打がなくなった。捜査は暗礁に乗り上げ、長期化の様相を呈していた。
帝銀事件

画家の平沢貞通

 7か月後の同年8月21日。画家の平沢貞通(当時56歳)が突然、逮捕される。犯行に使われた名刺を、その主から渡されていたこと、前年に起きた同様の手口の未遂事件の犯人と人相が似ていたこと、所持していた10万円あまりの出所が不明であること、などが被疑者とされた理由だった。二科展や帝展などで活躍する一流画家だった平沢は、法廷で無実を主張したものの、1955(昭和30)年に最高裁で死刑が確定した。
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遠藤周作、大島渚、松本清張らが平沢を支援
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