チンコのような温かさで私を強くきつく抱きしめて――爪切男のタクシー×ハンター【第十三話】
今までの人生で一番泣いたことはなんだったろうか。おそらくお風呂の中で初めてオナニーをした時だろう。学校の性教育の授業で「精子は体外に出た瞬間にすぐ死んでしまう」ということを習ってから、日々のオナニーに勤しみながらも「自分はこの気持ち良さと引き換えにたくさんの精子を殺しているのだ」という贖罪の念を常に頭の中に持っていたが、実際の所はそこまで気にはしていなかった。
お風呂の中でオナニーをしたのは好奇心からだった。発射した直後は、やってはいけないことをしてしまった高揚感でひどく興奮した。だが、自分の目の前に広がる奇妙な物体を発見して絶句した。湯船の中に出された精子は綿毛のような物体に変わり果ててしまうのだ。リアルな精子の死体を目の当たりにした。一回の射精で発射される精子の量は数億匹だとか聞いたことがある。今、自分の目の前にはおびただしい数の精子の水死体が浮かんでいるのだ。そう想像した瞬間に風呂場で大号泣していた。泣きながら風呂の湯を抜き、自分の部屋に戻り、布団にくるまって泣きに泣いた。朝まで涙が止まることはなかった。そんなに泣いたにもかかわらず、次の日も我慢しきれずにオナニーをしてしまう自分の情けなさにまた泣いた。
涙を流すことは少ないが、恐怖を感じるものは人より多い。虫、高所、先端、ソラマメ、数えきれないぐらいの恐怖症を持ち合わせているが、その中でも一番ひどいのは閉所恐怖症である。
個室トイレは、何かあった時に抜け出せる空間が少しでも空いていないと落ち着かない。エレベーターに乗り込む時は、仮に急停止した場合、この人達なら私に優しくしてくれそうだという面子が揃わないと乗り込むことができない。もちろん電車などの乗り物も苦手なのだが、電車なくして都市生活はままならない。そのために独自の対応策をいくつか編み出した。
まず一つは、自分よりも身体が大きい人が乗っている車両に乗り込むことだ。パニックに陥った場合、自分よりも身体が大きい人がいれば、その雄大な大きさを見ているだけで心が安心する。デカいことは本当にイイことだ。最近は、日頃の不摂生から私自身が巨大化してしまい、自分よりデカい人をなかなか見つけられずに困っている。
もう一つは外国人と同じ車両に乗り込むことだ。奨学金の返済猶予期間が延長された喜びで小躍りするようなダメな私でも、雀の涙ほどの愛国心は持ち合わせている。車内でパニックに陥っている情けない様を外国人に見せるわけにはいかない。私が馬鹿にされるのはかまわんが、日本を馬鹿にされるのだけは我慢ができない。国を愛する心が恐怖に打ち勝つのだ。ただ、相手が大柄の黒人だった場合、そんな愛国心などどうでもいいので、私のことを強く抱きしめて安心させて欲しいという欲求が上回ってしまう。世界に国境がないと言うのなら、まずは私を強く抱きしめてはくれないだろうか。
あらかじめ席が決まっている新幹線などの特急車では、上記の対応策を使うことができないため、獣神サンダー・ライガーやタイガーマスクなどのプロレスマスクを着用して座席に座っている。他人から見れば私は立派なプロレスラーである。最強の象徴であるプロレスラーが一般人に情けない姿を見せるわけにはいかない。愛するプロレスの権威を守るため、私は新幹線の恐怖に耐え続ける。もちろん、ワゴンサービスで駅弁を買う時は駅弁を二個注文する。プロレスラーたる者、常に大食いでなければいけないのだ。口元が開いていないライガーのマスクでは駅弁を食べるのにひどく苦労したが。
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『死にたい夜にかぎって』 もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー! ![]() |
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