ジャイアント馬場のギミックから始まった――“巨神”石川修司が辿った茨道【最強レスラー数珠つなぎvol.6】
「最強レスラー数珠つなぎ」――毎回のインタビューの最後に、自分以外で最強だと思うレスラーを指名してもらい、次はそのレスラーにインタビューをする。プロレスとはなにか。強さとはなにか。この連載を通して探っていきたい。
「お前は馬場さんに似ているから、馬場さんの真似をしろ」――DDT高木三四郎社長の一言から、プロレスラーとしてのキャリアがスタートした。28歳のときのことだ。四天王プロレスに憧れてプロレスラーになった。一方で、自分に期待されているのは“馬場のギミック”。しかし、体が細い。技術が伴わない。もてはやされるのは、エンタメ色の強いレスラーたち。プロレスというものがなんなのか、見失った。
いまの石川修司の活躍ぶりからは想像もつかない話だ。195cm、130kgの巨体で、相手選手をバッタバッタと投げ飛ばす。昨年、団体をまたぎ3つのベルトを獲得し、日本インディー大賞MVP、及びベストユニット賞を受賞した。石川修司というレスラーに、いつ、どのような変異が起こったのだろうか。
【vol.6 石川修司】
――若鷹ジェット信介選手のご指名です。曰く、「非の打ち所がない」と。ご自身ではいかがですか。
石川修司(以下、石川):完璧だと思ったことはないですけど、強くありたいとは思っています。「強い」と先に言っておいて、後付けに練習するようなところがありますね。まず自分にプレッシャーを与えて、恥ずかしい試合をしないために練習する、みたいな。
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――レスラーの中でもかなり体が大きいですが、昔は細かったとか。
石川:背は子供の頃から高かったんです。生まれたときも4500gくらいで(笑)。でも体重は増えなかったんですよね。高校は柔道部だったんですけど、185cmあって65kgくらい。ガリガリでまったく強くなかったです。プロレスデビュー当時は100kgくらいでした。そこから一気には増えていないんですよ。毎年3kgくらいずつ増えて、13、14年経って、いま130kgです。
――DDTでデビューしたのが28歳。遅咲きですね。
石川:選手がゴソッと抜けたときがあって、そのとき僕は合同練習も2桁しかしていなかったんですけど、高木社長に「お前、馬場さんっぽいから馬場さんの真似をしろ」と言われたんです。それで馬場さんの16文キックとか、ネックブリーカーとかをやって、それが高木社長にウケて、じゃあデビューっていう(笑)。高木社長にはずっと「馬場」と呼ばれていました。期待されていなかったと思いますね。
石川:いまってみんなレベルが高いんですよ。どインディーでも。でも僕がデビューしたときは素人みたいな人がリングに上がって、「下手くそなのが滑稽で笑える」みたいな風潮があったんです。なので、いまだったらデビューできていないんじゃないかと思いますね。技術が伴っていないままで、馬場さんの真似だけでデビューしましたから。同期が(マサ)高梨とか柿本(大地)なんですけど、高梨は闘龍門にいて、柿本はアマチュアでプロレスをやっていたので、基本はちゃんとできていたんです。1つ下には飯伏幸太がいて。本当に技術の差がすごすぎて、デビューしてからずっと苦しんでいました。
――苦労人と言われる所以は、その辺りでしょうか。
石川:僕は(ジャンボ)鶴田さんとか四天王プロレスが好きだった世代なんですが、実際、馬場さんのギミックでデビューして、そのときちょうど(マッスル)坂井さんとか(男色)ディーノさんの試合がもてはやされていたので、プロレスというものが分からなくなったんです。絶望してプロレスを辞めようかなと思っていた時期に、高木社長に「ユニオンプロレスを作るから、そっちに行かない?」と言われて、ユニオンに移ったんです。ユニオンではポイズン澤田さんがキャリアも長くてトップだったんですけど、それ以外は若い人ばっかりでした。そうなると僕なんかでも必然的にセミとかメインなんです。それで一生懸命、戦わなきゃと思って、戦いながら成長していった感じですね。
尾崎ムギ子/ライター、編集者。リクルート、編集プロダクションを経て、フリー。2015年1月、“飯伏幸太vsヨシヒコ戦”の動画をきっかけにプロレスにのめり込む。初代タイガーマスクこと佐山サトルを応援する「佐山女子会(@sayama_joshi)」発起人。Twitter:@ozaki_mugiko
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