恋愛・結婚

男子高校生の性転換手術を追った映画『女になる』を女装小説家はどう観たか?

医者「覚悟しておいてください」

 その子どもは、一向に大きくならなかった。毎週のように病院に通って写真を撮っても、影は大きくならなかったし、心臓の動きも感じられなかった。  そのうち医者は、「万が一のこともあるので覚悟しておいてください」というようなことを言いだした。それが2~3週間続いた頃に、僕は耐えきれなくなって、診察が終わった後に引き返した。ふたたび顔をあわせた医者は、すでに流産していると告げた。妻には目をあわせずに。  奥さんにショックを与えないために、本当のことをお話しするタイミングを探っていたんですよ、と医者は言った。帰り道に、妻は声を出さずにずっと泣いていた。  後日、妻は手術をした。全身麻酔をして、亡くなった子を体内から金属の器具で掻きだす手術。手術室から、「痛い痛い」と叫ぶ声が聞こえた。セックスをしているときの声よりも、後に立ち会った出産時の痛みに耐える声よりも、その声は大きかった。  僕は待合室でその声を聞きながら、どこかほっとしていた。またふたりだけの暮らしに戻れるのだと。  自分の居場所を守れるのだと。  その1年後に長女が生まれたとき、僕は願った。僕みたいな弱い人間になってほしくない。後は自由に、好きなように生きていってほしい。ただ自殺だけはしてほしくないと。
サブおんなになる

『女になる』(C)風楽創作事務所

言葉はしばしば真逆の意味を伝えてしまう

 話が大きく逸れてしまった。「女になる」ことをなかなか口にだせなかった未悠さんを前に、「人を殺したのかもしれない」という考えが脳裏によぎった、というお母さんに僕が違和感を感じたのはそのせいだった。  言葉はしばしば、考えていることとは真逆の意味を伝えてしまうもの。お母さんはきっと、2時間も泣きじゃくっているわが子を前にして、「人を殺したのかもしれない。でもきっと殺してはいないだろう」。あるいは、「人を殺したのかもしれない。でもそうだったとしても、私は何があっても味方でいる」と考えたのではないだろうか。  未悠さんのお母さんを、僕と同じような弱い人間だとみなしたわけではない。むしろずっと強い人だと思える。ただ、同じく親になった人間として、わかることがある。  孫の顔を見られなくなること。自分の体にメスを入れること。  親は、そんなことを心の底では気にしていない。むしろ気にしているのは子どものほうではないだろうか?  生まれ持った体に傷をつけてしまったことを。心に傷を負ってしまったことを。  親にとっては、世間の目にどう映ろうが子どもは子ども。大好きな子どもであることに変わりはない。  つまり、お母さんの言葉「人を殺したのかもしれない」「孫の顔を見られなくなることが辛い」というのは、未悠さんのお母さんへの気持ちを代弁したものではないだろうか?  この映画は、そこまでの優しさを引きだしているのではないだろうか。  その優しさへの答えが、最後のほうでお母さんが語っているこのひと言に集約されている。  「男の子も女の子も産めたと思ってる」
仙田学1030

仙田学

<文/仙田 学> 【仙田学】 京都府生まれ。都内在住。2002年、「早稲田文学新人賞」を受賞して作家デビュー。著書に『盗まれた遺書』(河出書房新社)、『ツルツルちゃん』(NMG文庫、オークラ出版)、出演映画に『鬼畜大宴会』(1997年)がある
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『女になる』
監督/田中幸夫
出演/未悠、みむ、Naoほか
配給/オリオフィルムズ 新宿K’s cinemaにて単館公開中
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