更新日:2018年09月23日 19:14
ライフ

埼玉県随一の高級ラブホはロードサイドにあり/文筆家・古谷経衡

独りラブホ考現学/第3回

埼玉県南部の“ホテルカリフォルニア”

 埼玉県を南北に縦貫する著名な国道としては、国道4号線と同17号線がまず筆頭にあげられる。両者とも、東京北部(北区・足立区)を起点として北関東方面に移動するには必ず通ることとなる物流の要衝で有り大動脈である。と同時に、首都圏屈指の「国道沿いラブホテル郡立地帯」でもあるのだ。
ナパバレー

不夜城のごとく光り輝く「ナパバレー」

 今回紹介するのは国道4号線沿い、埼玉県越谷市にあるラブホテル『ナパバレー』である。ナパバレーという名称、米国カリフォルニア州にあるワインの名産地(Napa Valley)と同じ名前だが、名前が同じだけであって、米国のそれとは何ら一切関係が無いと言うことだけはあらかじめ断っておく。しかしこのラブホテル『ナパバレー』、私の自宅からもほどよい距離にあり、設備面が充実しているのでかなり頻繁に足繁く通っているお気に入りのひとつだ。そしてこの『ナパバレー』を紹介するには、このホテルが立地する埼玉県越谷市の歴史的背景をどうしても語らなければならないのである。  近世期、徳川幕藩体制は五街道のひとつとして日光街道を整備した。これは江戸から日光(現栃木県)に通じる大街道で、陸上交通の動脈となった。起点は日本橋とし、千住(北千住)、草加、越谷、春日部、杉戸、幸手、栗橋へと続く。この草加から栗橋の六つの宿場町を通称「埼玉六宿」と呼び、越谷(当時は“越ヶ谷”と書いた)は日本橋から数えて日光街道3番目の宿場町として大いに栄えた。
以後、維新の大号令を経て戦前を通じて、越谷は東京近郊の旧宿場町、近郊農村としてその静謐なたたずまいを保ち続けた。
戦前(1935年-昭和10年)の越谷市周辺

戦前(1935年-昭和10年)の越谷市周辺。まだ市制施行がなされて居らず、表記は「越ヶ谷町」とあり、田畑に囲まれている。星印は今回取り上げるラブホテル『ナパバレー』の現在地(当時、埼玉県北足立郡出羽村付近)。青い破線は戦後に開通する国道4号線の大まかな道路図。(『埼玉県勢要覧. 昭和10年』より)

 越谷の歴史の転換点は、戦後、我が国が高度成長のただ中にある1964年に着工が始まった国道4号線が、1967年に開通したことによる。これにより、経済成長と共に越谷は東京都心の後背―つまりベッドタウンとしての性格を色濃くし、田畑が次々と住宅地に急変していった。現在、ショッピングセンターとして有名な「越谷レイクタウン」の建設構想は、もっとずっと後、昭和末期に入ってからである。
まさにこのような越谷の激変と国道4号線の開通が、東京都心の住民をしてぶらりと”ご休憩”をする場所、つまりラブホテルの郡立へと向かわせしめた直接の契機だったのである。
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(ふるやつねひら)1982年生まれ。作家/評論家/令和政治社会問題研究所所長。日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。20代後半からネトウヨ陣営の気鋭の論客として執筆活動を展開したが、やがて保守論壇のムラ体質や年功序列に愛想を尽かし、現在は距離を置いている。『愛国商売』(小学館)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり ヘイトスピーチはなぜ無くならないのか』(晶文社)など、著書多数

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