渡辺浩弐の日々是コージ中
第521回
7月28日「脳の飽食」
・僕は「了解です」「了解しました」などの言い回しをよく使うのだけど、ある時期から「”了解”って言葉は失礼なんですよ」としたり顔で忠告してくる人々が次々と現れておどろいた。調べてみたらすぐにわかった。そのころ「”了解”は失礼だ」という情報がネットで拡散されていたのだ。
・忠告をくれた人たちがみんな同じタイプだったことも、納得できた。本や新聞を読まない、ほとんどの情報をネットから仕入れる。そして即座に言いふらしたがる、そんな人たちだ。
・ネットは便利だけど危険だ。頭からっぽにして次々とリンクを開いていく行為で、人はどんどんジャンクな方向にはまりこんでいく。例えば発信者不明の適当情報をかき集めたまとめサイトへ、例えばアクセス数かせぎのデマ情報満載のキュレーションサイトへ。そういう場所で情報を十分に得ているつもりになってしまったり、さらにはそれをしたり顔で拡散してしまったりする。
・ちょっと古くて恐縮ですが、こちらは良記事ですね。
現代のオトナが捨てるべきこと 『ネット、トレード、自分探し』
情報は脳の栄養なのであり、飽食の時代だからこそ食べ物を選ばなくてはならない。そこで岡田斗司夫さんの「ネットはおやつ、主食は本」という言葉が的を射ている。
・ネットの情報だけでもやってはいけるだろうけれど、それはお菓子だけ食べて生きてるようなものだ。食べても食べても腹が減る。そしてさらに食べる。おいしい。けど元気は出ない。ただ、食べたぶんだけ、贅肉が増える。
・甘味料と添加物だらけのお菓子は、栄養をとるためのものではない。快楽のためのものだと割り切らなくてはならない。そればかりでお腹いっぱいにして栄養とった気になってぶくぶくと醜く太っていく。そんな人がとても多いように感じる。
・ネットに対峙して的確に情報を得るには、テクニックだけでなく精神力も必要だ。それをどう鍛えるか、考えている。
・少し前までは、SNSに期待していた。SNSを使いこなし、様々なコンテンツから得た情報や感動を自分から発信することを試みていくことで、人はネットの海を泳ぐ筋力を身につけることができるようになるのでは、と。最近、それは間違いだったと気づいた。
・本も新聞も読まない人がなぜSNSならどはまりするかというと、使えば使うほど、自分にカスタマイズされた都合のいい情報ばかりになるからだ。使えば使うほど、自分をちやほやしてくれる人の書き込みばかりが現れるようになる、やがて世界の全てが自分を甘ったれさせてくれるという錯覚に陥る。
第520回
7月20日「編集者のクリエイティビティー」
・マンガ家や小説家がネットに活動の場を以降していく流れが加速していく。そこで問われるのが、出版社の役割だ。特に読者側がこれまであまり知ることがなかった「編集者」のクリエイティビティーとは何か、ということが、明確になっていくはずだ。
・「編集者が不要になる」という意見も、「編集者が再認識される」という意見もあり、どちらも正しいと僕は思う。仕事をしていない編集者は不要になる。原稿を受け取って印刷屋に流すだけで高収入を得ている人たちのことだ。逆に優秀な編集者はスター化して、さらに前に出てくる。大手出版社から独立して巨億の富を得る人も大勢出てくるだろう。
・さて、優秀な編集者とは、どんな人か。これまでにすごいと思った編集者を思い出してみても、知能が高くてビジネス的な計算ができる人、性格無茶苦茶で生活荒れまくってるのに作家をひきつける魅力がある人、など、その個性はさまざまだ。ただし、全員に共通していることが一つだけある。
・新人の才能を見抜いて、導ける人だ。
・マンガ家も小説家も、第一作が最高傑作となる人が結構な割合でいる。そういう人が、ダメ編集者に出会ってしまったせいでチャンスを失い腐っていくという不幸が、すごく多いのだ。若い、才気ほとばしる作家さんから、編集者からとんでもない対応をされたり勘違いアドバイスを受けたりした話を聞くことがある。彼らにとって、別のところに行ってみる、という選択はとても難しいのだ。
・編集の能力をはかるスケールがないせいで、才能を見極める才能がなくてもその地位についている人がたくさんいるのだ。出版界にとっては機会損失の、そしてそのせいで潰れていく作家にとっては人生の損失の、元凶である。
・さて今後はネットを舞台にセルフプロデュースでチャンスを掴もうとするクリエーターが激増すると思うが、そういう人達は創作力だけでなく、この「編集力」というものを身につける必要がある。ただし編集の対象はたった一人、自分自身ということになる。これは簡単なようで難しい。
第519回
7月15日「赤と青」
・子供の頃、兄に頭をバットで殴られて昏倒したことがあった。命は取りとめたが、意識が戻ってしばらくしてから、自分がおかしくなっていることに気づいた。
・赤い色が青に、青い色が赤に見えるのである。たとえば青空が一面、真っ赤に見えるのだ。驚いて転んで膝を切ったら、そこから青い血が流れ出す。
・そのことを他人にうまく説明できない。「空が赤いんです」「ふざけるな青いじゃないか」となる。そこで、ふと考えた。自分が赤く見えている色は、他の人にはそもそも僕が青と呼んでいた色だったのではないか、と。
・「赤っていったら赤だ。血液の色。燃えさかる炎の色。熟したリンゴの色」……いや、それらみんなが青く見えてるとしたらその青は赤じゃないか。
・「青は落ち着く色、赤は興奮する色だ。赤は、見ていたらなんか熱い感じのする色だ」……いや、もし火や血が青く見えるのなら、青色にそういうイメージを感じるだろう。
・自分が見えている世界は、他の人が見えている世界とは全然違うのだ。他人に、自分のことを理解してもらうことなど、不可能なのだとその時、悟った。
・諦めてしばらく暮らしていたら、やがて、赤と青が入れ替わった違和感はなくなったのである。青だった色が赤と、赤だった色が青と、普通に感じられるようになった。僕はこの世界に慣れたのだ。というか、人間の主観なんて、この程度のものだったのである。
・この感じを体験したい人は、視界の上下がさかさまになるヘッドセットが売っているので、試してみるといい。装着して生活すると、最初の頃はそりゃもう不便で満足に動き回ることもできないが、数日で慣れる。というか、上下ひっくり返って普通に見えるようになる。
(今アマゾン見て来たけど、これプレイステーションVRより高いんですね)